シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

3-7⑴)大川隆法 [太陽の法:4有限と無限] を検証

注:以下【 】内が「太陽の法」からの原文、(青字)が私の解説等です。今回は省略せずに原文全部をアップさせてもらいました。なので、逐一私の解説等を入れながらの作業になりましたが、それがお邪魔であれば、黒文字だけを先に読んでいただいても構いません。では。

【4有限と無限

 私は、さきほど、時間ということについて述べました。そしてまた、存在ということにも触れました。そこで、つぎに、時間と空間のかなたにあるもの、すなわち、「有限」と「無限」について話をしてゆきたいと思います。

 人生は、有限か無限か。また、宇宙は、有限か無限か。人間なら、だれもが、一度は出くわす疑問でしょう。(お言葉ですが、私は人生も宇宙にも「有限か無限か」なんて発想で考えた事がない。「自分が考えた事があると、誰もが(一度は?)考えているだろう」←憶測です。こういう物言いの人、独善性の嫌いがある。)

 この結論を出す前に、私は、ひとつのたとえ話をしたいと思います。(以下の例え話、私には結構キツかったですが、同様に感じられた方、お許しください。)

 むかし、あるところに、大きな亀がおりました。その亀は、右足を出すのに十分、左足を出すのに十分、後足を出すのにもそれぞれ十分ずつ。つまり、体をひとまず動かすのに四十分もかかりました。あるとき、この亀は、砂浜の海岸に行きつくところがあるのかどうか不思議になった。そこで、ひとつ世界探検をしてやろうと思いつきました。そして、見わたせるかぎりの海岸をハッタとにらんで、全力をふりしぼって歩みはじめました。

 自分の体を、ひとくぎり前に前進させるのに、四十分もかかりながら、海岸線の測量をはじめたのです。亀は、自分がすでに歩いたところかどうかがわからなくならないように、砂浜に点々と足跡を残してゆくことにしました。こうすれば、同じところを二度歩かなくてすむと考えたからです。なかなか賢明な亀だといえます。

 しかし、いくら歩けども歩けども、海岸線は永遠におわることなく、とうとうある日、亀は、力つきてしまいました。自分が全世界の半分ぐらいは踏破したと信じながら、死んでしまったのです。

 あくる日、島の漁師がやってきて、その亀を引きずって島の反対側へともって行き、食べてしまいました。島の反対がまで行くのに、たいへんな時間がかかったでしょうか。いえ、漁師の健康な足をもってすれば、わずか十分でことたりました。

 結局、あわれな亀は、太平洋の波が自分の足跡を非情にも洗っていたとも知らずに、小さな島の砂浜をぐるぐるとまわっていたにすぎなかったのです。

 有限と無限について考えるときに、私は、いつも、この亀と漁師の話を思い出さずにはいられません。(←この書き方であれば、引用元がどこかにある筈ですが、その記述が見当たらないので、作り話かもしれません。強烈なインパクトがあったからこその、引用元があっての「思い出さずにいられない」と、こう続く筈なのに。)亀と漁師のちがいは、どこにあるのでしょうか。歩く速さ。もちろんそれもあります。 体の大きさ。もちろん、それもあります。あるいは、経験量の差。そういうこともいえます。(この場合、亀と漁師の一番の違いは「立ち位置」であり、次に「立場」です。生き物の種類の差はあれど、文中「経験量の差」と言えるほどの差に、着目する理由が私には分からない。もしかして「人間様の方が偉い!!」とか言い出しそうなお人か?)

 しかし、亀と漁師の根本的な差異は、認識力の差にあったといえるのではないでしょうか。(←「己の利益優先」という認識力はほぼ互角=同等でしょうが。)亀の目的、努力、そして熱意は、みあげたものですが、その結果にペーソスがただようのは、なぜか。やはり、そこには、わかるものとわからないものの差、知ることができるものと知ることができないものとの差、そういったものがはっきりとあるように思います。(大川の立場=自分の知っている体と、他の立場=皆さんの知らない体との、漁師というより“両者”の比較がしたかっただけの例え話だったと、気付かされますよね。)

 ところで、この亀と漁師を無神論者と有神論者といいかえてみたらどうでしょう。(はあ。「亀」と「人間」なのに、この換言は唐突且つ飛躍し過ぎる。)「私は亀ではない」と、おこりはじめる方もきっといるはずです。(←読者はそんな幼稚っぽいレベルでもないだろうに。)

 人生は、六十年、七十年の有限なもので、死ねばなにもかもおわりだと思っている人。自分の目に見える部分だけがすべての世界で、五官を超えた世界などはまったく信じないといってはばからない人。こういう人は、結局、世界探検に出かけた亀のように、自分の足跡だけをたよりに、同じ小さな世界をぐるぐると堂々めぐりしているにすぎないのです。まことに気の毒な人だといわなくてはなりません。(←そうかな?あなたよりはマシな気がする。)しかも、まさにあの亀と同じように、鼻に油汗を浮かべて必死に人生を生きているから、また、小さな島をぐるぐるとけんめいにまわっているから、どこかペーソスをおびているのです。(←多く人間とはそんな感じですが、いけませんか?それも必要不可欠&立派な「経験値稼ぎ」ですが。)

 私たち人間は、はるかむかしから、永遠の生命をもって生きております。そして、何度も何度も、地上に生まれかわっては、人生修行を積んでいるのです。(だから余計に「どんな体験も必要不可欠だ」という話ではないですか。)

 この地球を磁場とした世界だけをとってみても、私たち人間の生命体が活躍している空間は、この三次元地上界だけではありません。私たちは、本来、実在界、すなわち、四次元以降の住人なのです。それは、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、最上階である十次元まで広がっています。そして、心の段階によって、それぞれ異なる調和された世界に住んでいるのです。(「十次元」と言い切る根拠を教えてほしい。先ほど少し予習をしたが、次の章ではもっと凄そうな内容だった。) 

 ですから、宇宙が有限か無限かを悩んでいる方に対して、私は、「あなたが問題としている宇宙とは、三次元宇宙ですか、それとも、四次元以降の多次元宇宙ですか」と聞かざるをえないのです。(有限か無限かの問題と、「○次元宇宙」の問題は、そもそも別物=所謂「別次元の問題」じゃないですかね?)

 宇宙を人体にたとえるならば、三次元宇宙とは、はだかの肉体人間です。四次元宇宙とは、肉体をつつむ下着であり、五次元とは、下着の上のワイシャツ、六次元とは、ワイシャツの上のセーターです。七次元とは、上にはおるスーツ、八次元とは、全身をおおうコート。そして、九次元とは、頭の上の帽子のようなものなのです。(「三次元」のみが「裸の肉体人間」は分かるが、「三次元“宇宙”」と呼称する感覚が分からない。「三次元」は他の星でも同じなので、三次元を「宇宙」とくっ付けて“括ってしまえる”感覚が、私とは全く異なる。だいたい空気感が全く違う世界観なのだから、こんな物質的な例えが当て嵌まる訳がない。服は服=同じ次元だろうが。要は傀儡の発想。)

 右に述べたのは、もちろん、単なる比喩(←それにしちゃ〜酷すぎる)にすぎませんが、多次元宇宙構造をよくあらわしていると思います(さすが自画自賛&セルフ持ち上げ上手。重量挙げ選手か?)。すなわち、高次元宇宙とは、下次元宇宙をスッポリとおおうものなのです。といっても、 下次元宇宙(←この表現にも違和感しかない。この人の言う「下次元」がもし存在しなかったら、「高次元」も存在しない。)とまったく関係のないものではなくて、同じようでありながら、一層高度な目的をもった世界、それが高次元宇宙だといえます。(←目的と呼べるほどの目的意識は人によって様々。宇宙に存在する「高次元」とは、感覚的に言えば超絶広大な世界観故だからの高次元なのだ。知ったかぶりもいい加減にして欲しい。次回はもっと恐ろしい★)】 

 

ここでご報告があります。前々から考えていた事なのですが、昨日思い立って、幸福の科学批判というランキングに参加しました。やはり部外者が遠いところでほざくより、現実に被害に遭われた方のお目に触れられた方が、地獄で助けを求めている教祖のお役に立てる気がしたので。

なぜ思い立ったか?ですが、先日行われた選挙にて、我が東松山市の市議会議員に、なんと「幸福実現党」から一名当選者(得票数1,159)が出てしまったので、万が一を懸念したまでの策です。これがどんなお役に立てるか?は甚だ疑問ですが、とりあえずやるだけはやっての手は打っておこうと思います。

また本日は深夜なので明日にしますが、復帰してからの記事一連に関して、カテゴリー名とタイトル名の一部変更をさせていただきます。まだまだ少人数様のご訪問ですか、少しでも分かりやすくを心がけたいと思います。おやすみなさい。 R5/6/1㈭23:47