シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

63.シリウスから来た女part.2「『我』ってなんだろう?!」取り敢えずEND

最初に、昨日の記事にともさんより以下の返信がありました。(←ともさん、毎度祭り上げてすまないね〜、否すまん🙇‍♀️)

ともコメ:

前略)【私は「我は無くならないよ」と言い続けて来た。】は、覚えていませんでした。すみません。「我」について、説明してくださってありがとうございました。R5.8.18 8:57

「悪いお見本」みたいに記してしまって、ともさんには重ね重ね申し訳ないが、上記のように「覚えていない」という状態も、実は「『我(の状態)』で(生きて)聞いているから」なのよね。

 これも二十数年間、この『我』のデータを取り続けて来た結果、今だから申し上げるが、私が主催して来た勉強会等(&2019〜2021「真理心理学臨床心理学実験」)では、何度も何度も「同じ内容」を繰り返し、その都度同じ言葉で、且つそれでも効かないと感じられた場合には、何度も何度も言い回しや別の言葉に換えて、お伝えして来たにも関わらず…… 真理がどういった“モノ”なのか?を【「覚えられていない」】のだ。

 ……そう何度も繰り返し言われ続けても、それでも「覚えていられない」、故に質問しても「間違える」回答を、参加者ほぼ全員に何度も見せ付けられて来た。それ自体が「怖さ」というよりは、恐ろしかった(←ゾンビか?)。それは、私が『我』という“モノ”を知らなかったからだ。

 ということで、この『我って?』ネタはシリウスpart.1として、三度もご紹介して来ているが、ようやく目覚め始めた(=我から脱却=脱皮しかかっている。←これがともさんに何度か指摘して来た「自分自身を“俯瞰”する」ことの大事さだ) ともさんへ、また私自身が初心を思い出すつもりで、以下を再々(←四度目)アップしておく。

 

   シリウスから来た女

No.344《『我』、って何?!》第48回

注:以下に記す内容は、全文がYahoo!版(掲載日 2009/10/19(月) 午後6:42)にて再掲載したモノです。

  「*」このマークがある場合、下記に説明があります。

  現在(=2014/4/1)の心境を自ら太字でツッコんでいます。

配信日:2009/4/16  『シリウスから来た女』

第48回《『我』、って何?!》

【文中:利っちゃん=わたし=小杉利津子(肉体の“顕在意識”),“私”=大国主命(肉体の“魂の意識”)】  

 この頃のわたしは、「心を健康にする会」にご来場頂く方々に対し、「目に見える表現だけでご説明していこう」と心掛け、皆様と親しめる話題や身近な話題からその展開を考えていました。なので、明らかに「霊的な話」になると躊躇してしまい、

「わたしの霊眼で観得る『これ』は、本当にこのお方にとって言っても良い事なのだろうか?  ホントに大切な事なのだろうか?」

と、常に自問自答を繰り返していました。

 そして、ほとんどの霊的な視野に映るそれらを、「とても重大なモノ」とは捉えず、「あくまでも、それは何らかのサインだから」と無視せず、「見せられた内容」や「言われた言葉」を各々の立場で聞き易い言葉に変え、そのお方にとって「大切な意味をご自分で悟られるように」と努めました。

 また、それはわたし独自の修行方法であり、安易に答えを教えてもらう事は、“自分だけ”という特別待遇に甘んじて「卑怯」と感じ(←こういう感覚が無いから、「有る」という事だけでも『嫉妬』され、余計な心労を抱える事になる★悪循環。有ればあったで、『別にどうって事無い』というだけの事なのだが……そう「受け取っていただけない」のも残念至極★)、他にも「せっかく一人で答えを見付ける“楽しみ”を味わいにこの世に来ているのに、他の『誰かに簡単に答えを教えてもらう(←わたし自身は『誰かに簡単に答えを教えてもらう』事が大っ嫌いで、とかく霊が語り掛けて来る「知ったかぶり」がまた大大大嫌いだった。今はそれほど気にしなくもなった。←大人に成ったのか?プッ★)』なんて、逆に人生をとてもつまらないモノにしてしまう」……そのような価値観で人生を捉えていました。利:「みんな、あるいは一部の人達は、わたしと同じ考えではないか?」と勝手な推測をし、簡単に喋ってしまう事や、本人が傷付くような「知りたくないものをわざわざ知らせる事」に、とても慎重になっていました。

 なので、わたしのお話しには「霊的視力」など、別段「必要のないモノ」とも思っていました。

 そんな「わたしの態度」が、勉強会を楽しみに来られる方々にとっては、かえって無意味な印象を与えてしまったり、下らない冗談に聞こえたりと、ある情報が必要な人達に、とっても「“遠回りする”ような言い回し」しか出来ないでいました。

 ……それは、ある意味では「わたしの自己満足」でしかありませんでした。  

利:「ちっとも通じない。わたしの示したい事や分かってもらいたい事が、その人には全然通じない。どうしたら良いのだろうか?」……こう反省している時でさえも鳥肌が立っていました。

 

 この頃、地区センターでの勉強会中、ある方が、

「先生。それは、『我』の事ですか?」

と、ご質問を受けました。わたしは、

「!!っ『我』……?!!」

それだけ言うと、目が点になりました。正直、「『我』って何んだ?」。ここまでお読み頂いている皆様には、本当に呆れられてしまうお話しですが、これは「実話」です。わたしは、『我』という単語は知っていましたが、その日が来るまで「その意味を、まったく考えた事がありません」でした。自分でも、驚くと同時に情けない限りです。それからでした、自分自身の『我』と向き合うようになっていったのは。

 ここでハッキリ申し上げると、当時のわたしは、『我』と思えるほどの「強い自分」を、相手に強要したり、頑張って言い張ったり、貫き通した言動・行動も、また『我』と言えるだけの「強い自己主張」も、持った記憶がありませんでした。ただ、「誰か」という「第三者の為に自分の意見を貫く」場面は多々有りました。なので、わたしに「我が無い」とは、わたしの身近な人間ほどまったく信じられない事だと思いますが。

 これは「わたし」だけでなく、6次元から来た人間の常識だと思いますが、「相手を一番に考える」のが「自分」という存在なので、『我』を押し通すほど「小さな自分」という感覚をそれほど大切に、こだわった生き方をしてはいないのが本音……というところです。……この点は、地球に生きる人達に中々ご理解を得られない発想かも知れません。

 ですが、「心のお話」をする立場の人間が、皆様の大切な『我』についてを、「答えられない」など言語道断です。

 「カッパの彼女」との出会い、断食、ピカソ、人前での講話、「黒い世界」についての勉強……あらゆる事がこの「黒一点(=我)」に向けられ、集中して起こって来ていました。それは、「ウチの“お母ちゃん”の娘」として、この世に生まれ出た瞬間から始まっていた事ですが、やっとやっと突き詰めて「自分自身の内奥」を覗き込もうとする「心の準備」がココに来て整い、とうとうわたしの「意識」の表面に表れて来たという証拠でした。

                             明日につづく

【半生の反省】

さてさて、これからわたし自身が『我』と向き合って参ります。どういう展開になるのでしょうか?

 

H26.4.1 現在の心境

「『我』が在って、ホントに良かった〜〜〜!!」

と思える今日この頃です。

やっぱ、人間、『我』という存在が在って、

初めて『この世が楽しめる訳ですからね。

『我』ってサイコ〜〜!!(←今後、どんな展開になってしまうんじゃい★

という事で、まだまだ真面目路線は続きます。)

今日のひと言……「“我”の正しい見方=常に“自分自身”と思う事」

 

 これまでの勉強会としての集大成として、最後の最後に 2019〜2021「真理心理学臨床心理学実験」と称した、それまでどうにもならなかった『我』を糾す実験を行った。その実験では、最終兵器としてある秘策を試み、それが思いの外「『我』の正体」を突き止めることに成功したのだった。

 

最後に。

 ……約五ヶ月前に当ブログ活動を再開し、それまで貯めに溜めておいた「世の真相」とその対策とを、どうにか皆さんに無事お伝えしていこうと奮い立たせて来たつもりでいたが……それが、やり始めると末世の所為なのか?、多々色々と脱線する事が増え、話題もあちこちに飛んでいってしまい、なかなか落ち着いて「成果」を記すことができなくなっている……それが目下の私の現状&実態でした。

 少し前にも「太陽の法」へのダメ出し末尾に告知しましたが、もう少しお時間をいただいた上で、霊的真理についてとこれからの思考法への書物を起こしたいと思います。また、実験でのレポート等で『我』についても、改めて成果発表させていただく所存です。

 短い間でしたが、今しばらく猶予をいただくことで、世へ問い掛ける次への一手に王手を賭けるつもりで頑張って来ます。

 またご報告できる事があれば、こちら当ブログからご報告させていただきます。

 そして、こんな私に対するダメ出しや何かアドバイスやご感想等ございましたら、ご遠慮なくコメ欄よりメッセージをいただけると、とても有り難い限りです。

 では、できる限りなる早で、奮闘していくつもりでおりますので、不肖私を見守っていただけると幸いです。またお会いできる日を楽しみにしております。 かしこ R5/8/18㈮23:15

 

62.シリウスから来た女part.2「“我”は無くならない」

いくら聞いても聞いていても、一向に無くならない愚痴の正体とは、「自分が“正しい”と考える事」、それに依る「その“正しい位置”に居る」という、この思い込みが原因ではないか?と気が付いた。その発想自体が中道から外れ、色が付いているフィルター(=色眼鏡)での意識から物事を捉えて観て考えている、という証明に感じられた。……とても厄介な状態だ。……さて、どうした“モノ”か??】のつづきから

 

 なんと!!……本日ブロ友「ともさん」記事の話題から、手前味噌で恐縮するが、ナイスなアシストをもらったので、以下にご紹介。

 前回記事のつづきとしても、↑この話題が正にドンピシャなので、まずはご一読をお願いしたい。

 

 ともさん記事の冒頭【斎藤一人さんが『我をなくそう』と……】とあるが、初期の勉強会から一貫して、私は「我は無くならないよ」と言い続けて来た。そして rikuさんコメントでご紹介いただいた PLAYLIST の中にあった歌詞のフレーズ

「誰かの真似して生きている」

↑ この状態が、目下のところ大多数の人間の「我(の意識)」なので、模倣する人生から脱却できなければ、本当に知るべき我=「本当の自分自身」=「“真我”の状態」には辿り着けない(=至れない)、という“事”になる。

 この斎藤一人さん」を、私は噂程度でしか存じ上げないが、確か「精神的なリーダー」のような活動をされていると聞いた事がある。私はまったく面識がないので、『我をなくそう』という発言の、斎藤さんの本意や真意がどこにあるか?を確かめる術がない。

 なので、私から『我をなくそう』のニュアンスに、誤解のないように訂正を入れるとすると、その言い回しに使われた『我』は、意固地さや頑固さ、または素直ではない状態云々の、本人からは見えにくい「歪な心的態度」を指していたと推察される。

 人それぞれの考え方や価値観等から、単語の解釈には多少なりとも誤差がある。辞書を引いてみれば分かる通り、日本語では「同じ単語」なのに、「正反対の意味」が含まれる言葉が多い事多い事。それは一つの単語に括られる意味合いの、その範疇が広いという解釈になるのかなと。なので、個人個人に発生する「解釈のズレ」を考慮に入れた言葉を吐くには、一つ一つの単語自体を定義する必要が出て来る。それが哲学的思考の難しさでもあるのだが……。

 ……個人セッションに取り掛かって気づいた困り事の一つに、この「単語を定義する事」の大切さを知らない人が非常に多かった。それが女性陣に限ってなのか?は定かではなく、今も分からない。

 で、本題へ。

いくら聞いても聞いていても、一向に無くならない愚痴の正体とは、「自分が“正しい”と考える事」、それに依る「その“正しい位置”に居る」という、この思い込みが原因ではないか?と気が付いた。】←これ自体も『我』だ。『我』とは、常に湧き出て来る『自分自身の思考や意見や考え方』等々が『真理ではない状態』をも指している。それを逆に言えば、「真理で生きる」と「『我』の状態が無くなる」という事だ。  つづく R5/8/17㈭23:28

 

 

 

rikuさんへの返信をこちらから

rikuさん

大変大変返信が遅くなってしまい、誠に申し訳ございませんでした🙇‍♀️🙇‍♀️。お盆休みの忙しさにかまけ、すっかりボケていました(←これが本当の「失念」してしまいました🙇‍♀️🙇‍♀️)。お詫びの印として、いただいていた参考記事をこちらから(全部超長文故、申し訳ない)。

◉【rikuさんコメント2(2023/8/8 23:15)から抜粋:

「日本語の特殊性」については、(中略)実証されていくかもしれないですね。】

↑ これを聞いて、安堵いたしました。ありがとうございます!!

 

◉【rikuさんコメント2(2023/8/8 23:15)から抜粋

前略) PLAYLISTに関しては、見方によって、いろいろ学べそうなものを選んでみました。
(視聴数と視聴者のコメント,同時翻訳から日本語と英語の比較など)
私個人といたしましては、コスギさんなら、どこまで掘り下げるのか、お教えいただきたいです。

視聴が終わりましら、単語の羅列でも良いので感想をお聞かせいただければ幸いです。
(形式は自由で色,形,重さなど感覚的なものでも構いません。)

 

ということで、以下は「rikuさんのPLAYLIST」への感想(=常体語)です。

以下【 】内にrikuさんコメント1(2023/8/6 23:03)】←こちらをコピペさせていただいております。

 

◉【初音ミク - Tell Your World (Music Videoを片目で観ると立体に見えます)
https://www.youtube.com/watch?v=PqJNc9KVIZE

りつ談:・初音ミク- Tell Your World←こちらは両眼と片眼で二回拝聴(&見)致しました。

両眼で初見:女子の形成に使用された描写が「ケラチンの各種かな」と思えた。背景描写の様々な形や配色等では、「空気中の分子や素粒子等の細やかな模様、且つ大雑把な模様を表現しているのかな?」と感じた。

歌詞の内容では、私が訳したい真理を、日本語の表現したい&その奥深さについてを代弁して歌ってもらっているような気がした。

最後に……「両眼で見た」場合でもなんとなくは立体的に見えたが、「片眼で見た」方が、確かにリアルな立体に見えた。余談だが、息を吐きながら見るよりも、吸いながら見た時の方が、より奥行き感が感じられ、立体的な迫力が増した。

 

◉【・Liu Yifei – Reflection (中国語 英語版・日本語版あり) 
https://www.youtube.com/watch?v=a0VjzxOkJug
】 

りつ談:とても素敵な歌声の女性だった。感情もこもっていたと思う。しかし中国語が分からない私が読んだ動画内の和訳には、ずいぶん違和感があった(誤字的なミスも含む)。なので、和訳があるこちらの動画から感想を。

こんなに「本当の自分」とのギャップや違和感を歌詞にして歌ってくれているとは!! に驚いた。現在では、もっと多くの人間が色んな意味での違和感を、実際には体験し続けながら生きているのかもしれないと思えた。私は……本当は何をするべきなのか?が、実はわかっていないような気になった。申し訳ない。

 

◉【・Joan Osborne - One Of Us   
https://www.youtube.com/watch?v=LPPmqwnVBXo
 

りつ談:内容的には私にも分かる英語の歌詞だったような?感じもあったが、もっと正確に知りたかったので、こちら↓も参照した。

One Of Us/Joan Osborne 歌詞和訳と意味 - 探してたあの曲!

りつ談:なんとなく……だけど、真実っぽく聞こえて来た。でも「なんて言っても、“神様”なんて当てにしない方がいいよ」←と聞こえて来たのは私だけか??

 

◉【・Céline Dion - A New Day Has Come 
(比較対象として有名所を1つ, 設定ボタンの字幕に自動翻訳あり)
https://www.youtube.com/watch?v=NaGLVS5b_ZY

りつ談:これはこちらの和訳を参照した。

この歌詞を書いた人の「天使」は、「赤ちゃん」のことだそうだ。「魂を満たして」や「心の壁を壊したら」等のフレーズには、私の言及する“モノ”とは違う感覚で捉えている気がする。私の我が子への思いと、気持ち的にはカブる感覚はある。

 

◉【KOKIA - 本当の音
https://www.youtube.com/watch?v=bS0wMG9Jxow

りつ談:ただただ感動して涙が出た。私のこれからの励みにしたいと思った。

 

【・KOKIA - たった1つの想い
https://www.youtube.com/watch?v=-Hn5fcdz1-I&list=PLtqga-9h9HS8Be8U-wvvBl7U440j9wjaj

りつ談:この歌&歌詞全部が、rikuさんの代弁に聞こえた。

 

黒崎真音 - X encounter (設定ボタンの字幕に歌詞あり)
https://www.youtube.com/watch?v=0Be-YbyeseE

りつ談:これは天使体の飛び方を忘れた人の歌だよね?……映画アバターを見た時、空を飛ぶ際の飛び方が、自分でも分かったんだよね。だから違う体重の掛け方をしているシーンを見て、「そうじゃないって」って突っ込んだりしてた。……こういう内容を、いつかレクチャーできる日は来るのだろうか??……あはは〜

 

◉【Kanon – Saga ~ This is my road (英語版あり Jupiterに似ているかも)
https://www.youtube.com/watch?v=2T2pGjOzAtM

りつ談:これもみんなへの応援歌みたいに聞こえた。

 

KOKIA - 人間ってそんなものね
https://www.youtube.com/watch?v=iVee_AzLxT0

りつ談:これもみんなへの応援歌に聞こえるけど、この歌詞にある言葉は、全部普通に日常使っている単語だけで構成されているから、自然と耳に溶けて入って来るな。

 

最後に、rikuさん。

私も少しは、rikuさんと何かを共有できた感があり、これからの励みにさせていただきたいと思いました。

rikuさんみたいな繊細且つ聡明な方が、私の周りにいてくれたことに感謝します。

今回も、どうもありがとうございました。

またのお越しを期待しております。……おやすみなさい。R5/8/17㈭0:04

追伸:多分、こんなんじゃ納得いかないと思うけど、許してケロ〜☆彡 R5/8/17㈭0:27

 

 

61.シリウスから来た女part.2「中道でのみ『中庸』が適う」

いくら聞いても聞いていても、一向に無くならない愚痴の正体とは、「自分が“正しい”と考える事」、それに依る「その“正しい位置”に居る」という、この思い込みが原因ではないか?と気が付いた。その発想自体が中道から外れ、色が付いているフィルター(=色眼鏡)での意識から物事を捉えて観て考えている、という証明に感じられた。……とても厄介な状態だ。……さて、どうした“モノ”か??】のつづきから

 

 人それぞれで「考え方」や「価値観」等は様々だと思う。だが、一人間がその一生を生きる上で、自分の認識が「間違っている」や「合っている」と感じ取る五官の感覚は、その後に知るであろう「正しい答え」を得ることによってのみ、判定(=ジャッジ)される“モノ”ではないだろうか。その上で次を問うが、それとは異する感覚、つまり正しいか?どうか?答えが分からない内から、またはそれらを知る前であるにも関わらず、常に自分の考え(=出した答え)”が、または意見や価値観等が、「“正しい”と思い込んでいる状態」を、私は『錯覚』と捉え、そのような状態を引いて観ている=俯瞰してしまう自分が居る。なので、私自身の考えを「正しいと思う“事”」自体をして来なかった。なので、先述愚痴が口を突いて出て来る人の「正しさ」が、正しいとは思えず、むしろ「間違っているのではないか」と考えてしまう方が大概の場合に多かった。

 しかし愚痴を吐いて自分自身を正当化している状態では、「中道」という光が降りている範疇で捉える、所謂「中庸」という考え方の状態からは逸脱してしまう。そして更に、「偏る目」=偏見で、常に物事を判断してしまう癖が付くので、本来の中道故に働く直観(←素人が喜ぶ「直感」とは全く違う単語)という機能が働かなくなる。且つ、中道内を汚してしまうのだ。

 それがどんな時でも「常にそう思い込んでいた」らしい人たちが居た……と気が付いたのも、最初の個人セッションから「真理を学びたい希望者たち」を募集し始めた頃だった。それくらい私は、他者の考え方には無頓着で生きて来ていたのだ(←それとは違う「視点」で観ること*1に時間を費やしていた)

 ……ちなみに、私は自分の思うことや考えが、他人の視点で『正しい』と思われているかどうかを考える事がほとんどなかった。他人は他人の考え方が有って然るべしで良いと考えていたからだが、ただ『正しい』風を装うことで、他者や周囲の人たちとの距離に分離感を与えないように、またはそれを悟られないようにする、そうした立ち位置に終始していた。

 しかし私には、それをハッキリしっかり言葉にして伝えることができない、むしろ濁して伝えたり、遠回りして「自分で気づいてください!!」という立ち振る舞いをしてしまう、優柔不断な自分が居た。もっとしっかりした方が……良いよな。でも、どうしたら??が分からなかった。 つづく R5/8/15㈫23:55

*1:←追々白状する予定

60.シリウスから来た女part.2「自分が正しい」という錯覚

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)……これで最後の最後になります。不肖私にとっては、大きな決断を最後に記すことになりました。では。

[(3-64)[太陽の法:あとがき]…

 多くの人々を幸福にするために(たかだか一人間が記した文字面、及びそれを束ねた団体を作るだけで、且つ宗教政党を作って己の論を正当化したとして、それだけで多くの人間が「幸福」を感じられる訳がない。皆それぞれの幸せの形は、一人一人が全然違う形や価値観等による「幸福度合い」が違うんだってことが、この人も私自身もある意味で分かっていなかったんだと思う。今はそれが身に沁みるまで理解できた)、あまたの神理の書籍を刊行し、救世の情熱を込めた講演会を、全国各地で開催し続けて、まもなく満四年になろうとしています。しかし、今、本書全篇を、もう一度読みかえしてみて、やはりこの書が、私の神理伝道の核であり、出発点であることを、あらためて確認いたしました(←おお〜それはそれで良かった。もっと度がキツい著書があったら、同じ作業を繰り返さなければならないか?と思って、初めはヒヤヒヤしていた)。おそらく読者諸賢におかれても、さまざまな宗教書や哲学書を遍歴してきて、いままで疑問に思っていた諸点が、みるみる氷解してゆくという経験をされたことと思います(←こんな人=この本で霊的世界についての何某かが氷解したよという人がいたら、ぜひ「どういう点に納得ができたのか??」をお聞きしてみたい。私には、ここに幸福の「科学」と呼べるような何かが、どこに?、どのように?記されていたのか??が知りたい。全部が全部「非科学的な内容だ」としか見受けられなかった。だいたいは絵空事=絵に描いた餅ばかりで、きちんとした論拠=「証拠を提示してみろ!!」と言いたかった。死人に口無し、残念無念★)

 本書は、今世紀末から来世紀初頭に予測される大混乱、大異変により、全人類の意識が暗黒と化したとしても、神理の太陽が、いま、昇りつつあるのだということを告げ知らせるために書かれた一書であります。

 私は、本書が、救世の書となり、二千年、三千年のちの人びとにまで読みつがれてゆく、今世紀の遺産となることを信じて疑いません。

 この書が、必ずや人びとの暗い心に神理の灯をともし、幸福な未来への希望の原理となることを信じて疑いません。

 神理の基本書である、この『太陽の法』と同時に、時間論である第二巻『黄金の法』、空間論である第三巻の『永遠の法』が刊行されています。併読し、さらに深く神理を学ばれることを希望します。

 また、本書『太陽の法』を深く理解するための解説書として、『太陽のメッセージ①、②』(幸福の科学出版刊)、英訳版『太陽の法』である“The Laws of The Sun”(同)があります。熱心な学習者のための良き手引きとなることでしょう。

 とまれ、新時代の黎明が、この一書によってもたらされることを強く願って、あとがきの言葉といたします。十九九十年六月 幸福の科学主宰 大川 隆法中川隆

 

〔著者略歴〕大川隆法

 昭和三十一年生まれ。東京大学法学部卒業後、大手総合商社に勤務し、ニューヨーク大学にて国際金融論を学ぶ。

 昭和五十六年三月二十三日、大悟をする(←大語は述べていたが、大悟はほとんどしていない。まんまと狼霊にその“気”にさせられ乗せられた哀れで気の毒な人)とともに、人類救済の大いなる使命を自覚する。その後、昭和六十一年七月に退社独立して、人類救済のための神理伝導の機関「幸福の科学」を設立し、人類幸福化運動に全生涯をかけることを決意する。

 現在、幸福の科学では、創立四年目にして全国二十支部、十万人を超える会員が、全体目標である“正しき心の探求”と個別目標の“幸福の原理”である、現代の四正道「愛」と「知」と「反省」「発展」の教えの実践によって自己改革をなし、自らの幸福を獲得し、社会の幸福にも貢献できる“偉大なる常識人(←これに関しても「思い込み力」が凄まじい。普通の神経では、自分に「偉大」は付けられないはず。なのに付けられる所が「常識人」からは大幅に外れている。←誰かこういう非常識さを教えてやれる人間はいなかったのか?)”として、人生勝利(←やっぱり、これ「勝利」が最終目的か?。何に?誰に?勝てば、そんな気になれるのか??)への道を歩んでいる(←否、その逆の発想とその行動により、ミスミス地獄に陥ってしまった可能性は大)

 また、幸福の科学では、“知ることの大切さ”を重視し、全国各地で講演会、セミナー、瞑想修法、講習会、全国統一神理学検定試験等を実施して、会員の人格向上と悟りを深めるとともに、神理の探究・学習・伝道のための具体的取り組みを行っている。

 人類幸福化のために世に問うた書籍はすでに百冊を超え、代表作には、救世の三部作である「太陽の法」「黄金の法」「永遠の法」並びに、「仏陀再誕」「釈迦の本心」「真説八正道」等がある。神理の国際化に向けては、英訳版・太陽の法「The Laws of The Sun」が刊行され、海外の多くの会員が神理学習に励んでいる。

〔連絡先〕割愛

最後の感想:……人間に「“(大)噛み”がかり」が起こると、恐ろしいほどの泥酔状態から大層な人物に豹変できるもんなんだなという見本だと思った。

 本書とここまでじっくり対峙し終わって、今私は、「中川隆」なる泥酔人が書いた当時の「あとがき」を読んだことで、「今」本当の意味で世の中に役に立つ書物を世の中に送り出してみたくなった。……というか「私が書かなきゃ誰が書けるんだ?!!」という、そのくらいの気持ちで「世の中を正・直・糾・質さないとダメ」と思った。同じ「日本人としての恥書き作業」は、この人だけに終わらせる訳には行かないとも。この決意に至るまでが、私に課せられていた使命ではないのかと、ヒシヒシ感じている。かしこR5/8/14㈪23:07

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

「個人差を理解する」ために、真理を学びたい人を対象として、個人セッションを開始し、そうして対面での「勉強会」をすることで、より深く人との関わりからそれらの事象を知るために、しばらくそのような状況に腰を据える覚悟した。 そうして、闇=色の世界に入るためにはどうしたら良いか?という思案が続いた。】のつづきから

 一番最初に取り組んだ個人セッションでは、各人の「お悩み相談」で終始した。……その点でいえば、私のそれまでの人生では、ずーっとそれ=個人的なお悩みの捌け口になって来ていた感があり、得意中の得意分野だった。故に、たくさんの愚痴を聞くだけ聞いた。それが「腹の中の“白•黒”の正体だ」と考えていたからだ。

 がしかし。いくら聞いても聞いていても、一向に無くならない愚痴の正体とは、「自分が“正しい”と考える事」、それに依る「その“正しい位置”に居る」という、この思い込みが原因ではないか?と気が付いた。その発想自体が中道から外れ、色が付いているフィルター(=色眼鏡)での意識から物事を捉えて観て考えている、という証明に感じられた。……とても厄介な状態だ。……さて、どうした“モノ”か?? つづく R5/8/14㈪23:24

 

[(3-63⑹)最終話[太陽の法:10獅子のごとく吼えよ]

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。内容的には今回で最終回になります。なのでなのか、やたらツッコミどころ満載だったので、シリウスpart.2はお休みさせていただきます。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-63)[太陽の法:10獅子のごとく吼えよ]…

 法律ばかりを勉強していた私が、六法ではなく、正法に触れたのです。十九八十一年一月のことでした。高橋信次の著作『心の発見・神理篇』をはじめて読みはじめたのですが、五十七ページぐらいに達したとき、私は、自分の胸が大きく打ちはじめ、体が、こきざみに前後に揺れていることに気づきました(←これ、当人の中道内に走る精神の意図が、何物か?に引っ張られている状態。“小刻みに前後に”という点は、私にはかなり引っ掛かる。……実際この人、中道をかなり汚して来ているらしく(=「バランスを均る考え方」が確立されていない「中道の使い方」の所為で)、ゴミや埃や粘着物等々が、中道内のそこいら中に張り付いてはこびり付いたりして、中道の“管”内を詰まらせている証拠だろう。本来なら、精神的に自立が進み、中道の掃除が行き届いて綺麗な状態であれば、光の循環は絶えず行われているはずなので、精神体に準えた肉体も微動だにもせず、また多少なりとも揺れないはずだ。こういう霊的な知識を知らない、知らされていないこの教祖も、もちろん信者様も、邪心の有る何ものか?に騙され、傀儡=手足にされていくのも当然だ。信者達に大間違いと勘違いをさせてしまう前に、こうした真実を伝えてやってほしかった。残念無念★☆彡彡)

 なにかが起ころうとしていたのです(←これも同調や同期から起きて来るので、元々劣等感の塊状態から中道内を汚しきっていたようなので、同じように「穢れ腐敗している“ものの気”を寄せ集め、それにより霊的にどんどん太る=たくさんのもののけの餌食になること」への示唆)。私は、同じ著者の作品をつぎつぎと読んでいったのです(←この作業は同調の程度をより濃く強い絆?にする作業となる。つまり憑依の程度の度を超して「より一体化」していく。

 本来、霊的な事態への物の見方や考え方は「いち参考にする程度」にとどめて、聞いておくくらいにしておけば、己の中道に位置する自分自身の意識の軸をぶれさせることなく、ど真ん中に中枢として意識を据えて置くことができるのに。……本当に、霊的無知のやることなすことは、無知蒙昧すぎてお先真っ暗だ。これだから正しく説明してくれるような霊的指導者が必須になって来るのだ。何故なら、そうした霊的真理とは、常人の想像をはるかに超える内容が仕組まれているからだ。真理を理解していくことで、「この世の道理」の筋道ははっきり読めていく“モノ”だ。幸福実現党全体が「哀れ」であり悲惨すぎる。日月神示では99%正解になっていたような?←こんなに多くの正解もなかった★)が、口をついて出てくる(←もう「乗っ取られている」=一体化している所為だろう)のは、「私は、この神理を知っている。昔、これを学んだことがある(「高橋信次」という人物は、そんなに昔の人じゃないだろうに)」ということばでした。

 同年の三月二十三日、日曜日だったと思います。突然、だれかが自分に話しかけようとしている気持ちに打たれ、いそいで、カードと鉛筆を用意しました(←魔物の餌食になる所以の優等生的行動だ。元が「純朴青年」だからまんまと引っかかっちゃう&魔物の常套手段=煽てに速攻乗せられ祭り上げられてしまう、邪霊からすれば「(乗っ取り易い)簡単なタイプ」だ)。鉛筆をもつ私の手が、まるで生きもののように動きはじめ、「イイシラセ、イイシラセ」と、カードに何枚も書きはじめたのです。そして、「おまえは、なにものか」とたずねると、「ニッコウ」と署名します。日興上人だったのです。(←この際言っておくけど、高次元霊は自分からは絶対に名乗らない。何故ならビッグネーム等を名乗りたがる邪霊 は山ほどよりも多く居り、稚拙極まりない態度「本物のマネだけしたがる」故に、その名を都合良く騙られ悪用されるのが明白だから。そんな手口も知らないなんて、よっぽどのお人好しだ、この人。誰か「大川隆法」と名乗るこの男の本名を教えてくれ。映画エクソシスト同様「本名」にしか色々効かない★……という事で、検索してみた。以下)

 そのあと、日蓮聖人からも通信を送られはじめました。聖人の私に対する最初の教えは、「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という三つのことばでした。この時点では、私はまだ、自分は過去世で日蓮宗系の僧侶だったのだろうかと思っておりました。←普通で考えれば、男•性なんだから「審神者する方」だろうに。この人が、女•性特有の霊媒行為に染められていったのは、どういう経緯&何故なのだろうか。

 しかし、決定的な瞬間がきました。十九八一年六月のある夜のことです。いままで聞いたこともないような荘厳な声が、突然、私の心に響いてきました。そして、高橋信次(←こいつも狼憑き=相当な悪党に取り憑かれた人物)という人が、私に、通信を開始したのです。この方は、ちょうど五年前に亡くなっており、私は、その方に生前に一面識もなく、 その存在すら知りませんでした。(↓ 茶番すぎ。「中川隆さん、お気の毒」としか言えない★)ついでに高橋信次の本名もググる。→ 本名「高橋春雄」

高橋春雄大川隆法よ。今日、私は、お前の使命をあかすために来た。おまえは今後、おおいなる救世の法を説いて、人類を救わねばならないのだ(←こんな胡散臭い事、釈迦やイエスも言われてないだろう★彼らだったら「出たな!!化け物!!!」と、さっさと追い払うと思う)

大川(中川隆)「先生、私は一介の商社マンです。しかも、かけ出しの新人社員です。この私などに、なにができましょう。それとも、お嬢さんがついでおられる、GLAという団体の協力でもせよとおっしゃるのですか」

高橋春雄GLAは、おまえを必要としない。おまえは、おまえの道を切り拓け。独力で自分の道を切り拓いてゆけ」

 このとき、高橋信次(春雄)と名のる霊は、私の使命と、私がなにものであるかを語りました。

 私の話を聞いて、非常に驚いて、即刻、私の郷里からかけつけて来た人がいました。その人とは、現在の善川三朗幸福の科学顧問です。そして、やはり同じ十九八一年六月に、善川三朗顧問の前で、私を通して、イエス・キリストが出現したのです。それは、衝撃の事実でありました。←「風貌は?」一応どんな感じで似せたのかは知りたかった。

 それ以後、善川三朗顧問と私は、つぎつぎと眼前にくりひろげられる霊現象を前に、あるいはおどろき、あるいはいぶかりながら、神理の探究をはじめたのです。やがて、日蓮聖人が、善川顧問の過去世は、六老僧のひとり、日朗上人であることを告げました。そして、その縁で、当時、私の指導霊役の一人であったことも、知らせてくれたのです。←何言ってるか?さっぱり★

 私が呼べば、天上界のありとあらゆる霊が出て来はじめたのもそのころです(←こういうことはあり得ない。呼んで「はいはい」出て来たら、もうそれは邪霊の証拠。神様=高次元に居る諸先輩方とは、よっぽど生前等に御縁を賜ったか、またはご本人に対し重大な用事があったか?でない限り、呼んだら「ハイよ!!」なんてアラジンのランプじゃないから出て来るワケないじゃないか。……幼稚園児じゃないんだから、それくらい気づけよ★って、こんなことを突っ込むこっちが恥ずかし過ぎる)。私たちは、ことの重大さをかんがみて、彼らがほんとうに高級霊であるということが確信できるまで、世間に対して、約四年間の沈黙をまもりました(←これも短かすぎる。もっと自分自身の血筋なり何なりを調べるなり何なりして、どういった根拠でそれが懸かったか?等の研究をするとかしてほしかった。ほぼ自分達の勝手な思い込みからの判断に委ねた感が否めない。ど素人が審神者できるわけもないし。自分らが高明な存在だと浮かれ過ぎていると、足元を掬われていることにも気づかない。本当にこうした人たちの世話は厄介)。しかし、どのように疑おうとも(同直上)、彼らのことを語る(=騙る)ことばは、真理(←に見せ掛けた「無理」)であり、地上のどのような識者にも見られないような、威厳と叡智に満ちあふれていたのです(←こんなの、芸能人だって出来る)

 十九八五年八月、私たちは、第一巻目の霊界通信、『日蓮聖人の霊言』を世に問いました。反響は予想以上に大きく、私たちが危惧していた批判の声は、意外にも数少ないのにおどろきました(←だろうね。この世の中が腐っているから、偽物の方がより市民権を得やすい=知らない世界に騙され易いという証明だ。本物(が生きている当時)はいつも大衆に無下にされて来ている事実、知らんのか??)。同年十月に、『空海の霊言』、そして、十二月、『キリストの霊言』、さらに、十九八六年二月、『天照大神の霊言』とつづきはじめると、読者の声は、なりやまなくなってきました。

 こうした霊言集を刊行しながらも、私の会社勤務はつづいておりました。都内にある国際的な総合商社で、私は、国際金融を担当していたのです。ニューヨーク本社勤務も、研修で一年赴き、ニューヨーク大学でも勉強しました。私は、善川三朗氏のかげにかくれて、いつしか世間的な出世を考えはじめていたのです。社内では、エリート街道をまっしぐらに走っているように見られ、いつしか女子社員からも、ちやほやされはじめている私であったのです。

 しかし、十九八六年六月、ついに、鉄槌がくだりました。日蓮聖人、イエス・キリスト、天之御中主之命、天照大神、モーゼ、高橋信次と、つぎつぎに降下したたちは、私に、即座に会社をやめよときびしい姿勢で通告をしてきたのです。三日間、眠れぬ夜がつづきましたが、結局、私は、会社に辞表を提出しました。そして、同年、七月七日に三十歳の誕生日を迎えたばかりの私は、七月十五日、お世話になった商社を去ったのです。

 十九八六年九月、私は、東京に「幸福の科学」を設立し、神理伝道に全生涯をかけることを決意しました。「一粒の麦、もし死なずば……」というイエス・キリストの声が聞こえてきます(こんなことなんでお前に?イエスが??バーカ)。私は、これからの数十年の生涯を、獅子のごとく吼えつづけるつもりです。神理のために、ともに吼えてくださる方が、ひとりでも増えてくれることを、心から願いながら……。

……しかし、この中川隆氏に憑いた邪霊等は、「私=りつこに起きる霊現象の一部始終を逐一盗み見て、悪用&乱用して来たんだな」と、つくづくそう思わざるを得ない点が多々あった。次の「あとがき」でその証拠を掴み、ここ当ブログで文字面にして晒し、火の目を浴びせてやりたい。

 

次回「あとがき」と〔著者略歴〕で大川隆法著作「太陽の法」へのツッコミを終了させていただきます。 つづく R5/8/13㈰23:27

 

 

59.シリウスから来た女part.2「チャクラの個人差」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-62)[太陽の法:9最後までねばりぬけ]…以下は個人的な体験談、且つご意見と判断し、ダメ出しはほぼ割愛します。

 勇気とは、大切なものです。そして、勇気をふるい起こしたとき、人間は、自らが大力量人であることに気づくのです。しかし、ひとたび自らが大力量人であることを悟り、病床から立ちあがり、力強い人生を生きはじめた人であっても、あるいは、唯物思想の迷妄を断ちきって、神理に目覚めた人であっても、この三次元の物質界の波動を受けつづけ、三次元人間の誘惑にひっかかりはじめると、 だんだんに気力がうすれてゆくときがきます。

 しかし、そのときこそが、歯をくいしばって、がんばるべきときなのです。マラソンでも、同じです。その途中で放棄したくなるような、苦しいときが必ずきます。そういうときに、そこで、投げてしまったら、だれもが勝利のチャンスを失ってしまいます。つまり、その競技で、完走ということはありえなくなるのです。

 しかし、その苦しい期間を通りすぎると、なぜか、足が軽くなり、最後まで走りつづけることができます。そういう不思議を経験した人は、たくさんいるはずです。水泳でも、同じです。息が苦しくなって、泳ぐのをやめたくなったとき、まけるものかと、歯をくいしばってを泳ぎつづけていると、やがて自分の体が水と一体となり、波のごとく、泳ぎつづけることができるのです。

 もちろん人生は、マラソンや水泳とはちがいます。しかし、同じように、苦しくても、耐え忍ぶべき時期というものがあるのです。そして、そういう時期をねばりぬいたとき、ひとつの自信を得るとともに、神の光明を密接に感じることができるようになるのです。

 私事で恐縮ですが、私にも、そういう時期がありました。生来、田舎育ちで、愚鈍であった私ですが、小学校のころから、「自分は頭が悪いから、人の二倍、三倍努力して、やっと一人前だ。社会に出て、世間の役に立つような人間になるには、ほかの人が眠っているときに、寸暇をおしんで、四倍、五倍の努力をしなければいけない」と考えていました。

 十歳のときのことですが、四国の山奥で、寒い冬、毛布を腰に巻き、手袋をはめて、 夜おそくまで勉強していた私自身をおぼえています。暖房がなかったからです。ただ、十代の自分をふりかえると、まったく亀のようであったと思います。私は、兎のようにあかぬけた秀才にはなれなかったのです。

 田舎育ちの少年は、十八歳の春、三十キロを越す本をバックにつめ込んで、東京駅に降りたちました。まだ凍えるほどの寒さだったというのに、顔を上気させ、汗を流しながら、どうやって渋谷駅に行ったらよいかがわからず、途方にくれていたのです。この春、東京大学文科一類を受験して、二次試験不合格となりました。 翌年は、蛍雪一年の功があって、なんとかすべり込みました。

 しかし、東大法学部の学生は、全国から集まった秀才ばかりで、たちまちにして私は、劣等感の虜になってしまったのです。それゆえに、人と会うと大言壮語を吐く(←はれ?これ、私が最初の方でツッコんでいた言葉だ)。そういう自分がいやとなり、やがて対人恐怖となり、下宿にこもって、本ばかり読むようになっていました。

 大学二年の冬から、翌年の夏までは、都会育ちの才気煥発な女性に心魅かれて、ラブレターを書きつづけていたことをおぼえています。ラブレターを書きつづけて、半年後、やっと便せん一枚だけ返事がきました。それをもって、二階にあがる階段の途中で、太陽の光にすけて見えるその手紙の薄さに落胆しました。私は、彼女へのラブレターを、小包にして送っていたのです。

 私はその彼女とは、わずか一度しか話したことがありません。私は、対人恐怖に輪をかけた赤面恐怖症で、若い女性とは、ひとこと、ふたこと話すだけで、あとは上気してしまい、話にならなくなったからです。

 失意のなかでも、私は、亀のごとく、本だけは読みつづけておりました。頭が鈍るという理由から、夕食の量を減らしてまで、法律と政治学の勉強をしました。しかし、一年の留年ののち、司法試験は、短答式試験には合格するも、論文試験には不合格。国家上級公務員試験も不合格。東大に助手として残ろうとしたのですが、成績不良につき、その道もとざされてしまいました。そして、ある商社にやっとひろわれた感じで就職したのです。

 十歳のとき、四国の山のなかで、白手袋に息を吹きかけながら、赤い耳をして、寒さのなかで勉強していた自分の姿を思い出すと、私は、涙が流れました。私は、この世的に成功しようとすると、つぎつぎと打ちくだかれていったのです。そして、自分のいつわりの人生をふりかえっては、こう思っていました。

「ああ、自分は世の中に対して、なにひとつ還元していない。自分は、自我我欲のままに生き、まったくの悪人になってしまった。いま、死ねば、きっと自分は、地獄の最深部に堕ちて、何百年ももだえ苦しむにちがいない」

 二十四歳の冬、私は、高橋圭子著の『真・創世記 地獄編』『天上編』などを読み、これを通して、さらに高橋信次著『心の発見』と出会ったのです。夜あけ前が、いちばん闇は深く、運命は、ひらける前に、その底につきあたるのです。そして、とうとう、運命の歯車がまわりはじめました。大学卒業前の、卒業試験のころでした。

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

精神的な世界観にみる「中道」という道から外れ、外道と呼ばれていた邪道が罷り通るようになったのが現在だ。この責任は……どこに?、誰に?一体どうなっているのか。】のつづきから

 前回記事の内容では、「中道内には“色”が存在できる要素がない」というお話をした。そして“色”とは“欲”望とも記した。実際には、欲を望むという行為は、体側にあるチャクラ、もしくは真下=肛門1次元のチャクラの、どこか色の付いたフィルター(=チャクラの窓や扉)に意識が在り、その窓から外を見ている状態であり、意識がその次元に居る=位置している=留まっているという状態で物事を見ている……故に、その次元(=階層)の発想に縛られている……と考えられた。

 しかし、上記はあくまでも私の環境である「中道の中から見得ている“意識”で考察していた現象」だった。故に断言できるほど、まだ確証は得られていなかった。

 

 ここで、再度前回記事の中段 ↓ 以下の内容に丸つき数字を当て、更に詳しく解説してみる。

それら五つの次元のチャクラの窓=扉は、ほぼ体側に張り付くようにして備わっている。

……②これを「事実」として受け止めると、実際の「中道内には色が付いていない」という事が推察されるだろう。またそれは、

「中道の内側となる環境には、色が備わる要素が無い」とも言えるのだ。

「管状」ということは、外界から色が入る要素を排除され、守られた環境である中道内では、「無彩色がその世界観」ということになる。

①について

 前提として、中道の構造は「“管”状」だと記した。その“管”状である中道の「側面」に、「窓」のような状態か、それとも扉のような状態になって、張り付いているのが2〜6次元の「チャクラ」だ。なぜ「窓」や「扉」と、物としては違う表現を使うのか?……それには「個人差がある」からだ。

②について

 先に【これを「事実」として受け止めると、】←こう前置きしているのは、「事実ではない状態」が含まれるからだ。事実ではない状態とは、①でも言及している通り、個人差があるからだ。

③について

 敢えて前文「中道の内側となる……(省略)」に対して【とも言えるのだ。】←これを補足に付け加えることで、前文の状況についてを肯定的に受け取れるように仕向けている。これには「そうではない状態」を加味させるために、敢えて“保険”として付け加えていた。(こうした(日本語の)副詞の使い方は、私の「言葉の責任」の果たし方であり、常套手段だ。読む側にもその責任はもちろん派生する。なので「言葉を正しく理解する事」も、各人が自立するための非常に大切な要素だ。)

……ということで、これにも「個人差はある」。

④について

 これに関しては、ほとんど例外がないと思われる。しかし、この無彩色の世界観を有する人間は、ほとんど見た事がない。

 

 という訳で、「外道」が罷り通る世界になったこの世の状態の責任は、一応全員にあるのではないか?という結論に達した。

 その上で、チャクラや中道の問題に関しては「個人差がある」事ばかりなのだった。つまりは何事に於いても「一概に言えない」事ばかりで、せっかく日本語の真髄が理解できる所まで来たというのに、且つこの世では「見えない世界の真理」を明るみに出すことへ……それらを論じることへの決定打を打てないのだと覚った。

 だが私も、千載一遇で生まれて来た意義を諦める訳にもいかないので、その「個人差を理解する」ために、真理を学びたい人を対象として、個人セッションを開始し、そうして対面での「勉強会」をすることで、より深く人との関わりからそれらの事象を知るために、しばらくそのような状況に腰を据える覚悟した。

 そうして、闇=色の世界に入るためにはどうしたら良いか?という思案が続いた。 つづく R5/8/12㈯23:58