【いくら聞いても聞いていても、一向に無くならない愚痴の正体とは、「自分が“正しい”と考える事」、それに依る「その“正しい位置”に居る」という、この思い込みが原因ではないか?と気が付いた。その発想自体が中道から外れ、色が付いているフィルター(=色眼鏡)での意識から物事を捉えて観て考えている、という証明に感じられた。……とても厄介な状態だ。……さて、どうした“モノ”か??】のつづきから
なんと!!……本日ブロ友「ともさん」記事の話題から、手前味噌で恐縮するが、ナイスなアシストをもらったので、以下にご紹介。
前回記事のつづきとしても、↑この話題が正にドンピシャなので、まずはご一読をお願いしたい。
ともさん記事の冒頭【斎藤一人さんが『我をなくそう』と……】とあるが、初期の勉強会から一貫して、私は「我は無くならないよ」と言い続けて来た。そして rikuさんコメントでご紹介いただいた PLAYLIST の中にあった歌詞のフレーズ
「誰かの真似して生きている」
↑ この状態が、目下のところ大多数の人間の「我(の意識)」なので、模倣する人生から脱却できなければ、本当に知るべき我=「本当の自分自身」=「“真我”の状態」には辿り着けない(=至れない)、という“事”になる。
この「斎藤一人さん」を、私は噂程度でしか存じ上げないが、確か「精神的なリーダー」のような活動をされていると聞いた事がある。私はまったく面識がないので、『我をなくそう』という発言の、斎藤さんの本意や真意がどこにあるか?を確かめる術がない。
なので、私から『我をなくそう』のニュアンスに、誤解のないように訂正を入れるとすると、その言い回しに使われた『我』は、意固地さや頑固さ、または素直ではない状態云々の、本人からは見えにくい「歪な心的態度」を指していたと推察される。
人それぞれの考え方や価値観等から、単語の解釈には多少なりとも誤差がある。辞書を引いてみれば分かる通り、日本語では「同じ単語」なのに、「正反対の意味」が含まれる言葉が多い事多い事。それは一つの単語に括られる意味合いの、その範疇が広いという解釈になるのかなと。なので、個人個人に発生する「解釈のズレ」を考慮に入れた言葉を吐くには、一つ一つの単語自体を定義する必要が出て来る。それが哲学的思考の難しさでもあるのだが……。
……個人セッションに取り掛かって気づいた困り事の一つに、この「単語を定義する事」の大切さを知らない人が非常に多かった。それが女性陣に限ってなのか?は定かではなく、今も分からない。
で、本題へ。
【いくら聞いても聞いていても、一向に無くならない愚痴の正体とは、「自分が“正しい”と考える事」、それに依る「その“正しい位置”に居る」という、この思い込みが原因ではないか?と気が付いた。】←これ自体も『我』だ。『我』とは、常に湧き出て来る『自分自身の思考や意見や考え方』等々が『真理ではない状態』をも指している。それを逆に言えば、「真理で生きる」と「『我』の状態が無くなる」という事だ。 つづく R5/8/17㈭23:28