シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

28.シリウスから来た女part.2「内心の声も外に漏れ出る」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-34)[太陽の法:第4章悟りの極致 1悟りとはなにか]…

 悟りとは、長年にわたり、つねに人類を求めてきたものです(←そうかぁ?……長年、他人の内心の声を聞いて来た気もするが、そんな“事”言ってた人、居たっけか?)。そもそも、悟りとはなんであるかがわからなくても、悟りたいという気持ちのなかには、自分自身を一段と飛躍向上させたいという意欲があるでしょう。それは、否定できないはずです(←確かにそうだ)

 悟りということは、とくに宗教にはつきものですが、宗教でなくても、哲学のなかにも、悟りたいという根源的な強い衝動はあります。 哲学的に悟りたいという気持ちは、真理に到達したいという気持ちです。世の不思議、世界のしくみを、理知的にとらえてみたいという念いです(←ここは同意)

 孔子の教えである「儒教」を、宗教とみるかどうかは、議論の余地があるでしょう。しかし、少なくとも、孔子の訓えが、人間完成の道であり、道徳的完成の極致であることについては、異論は無いはずです。すなわち、孔子は、「道」というものを通して、人間を教育的見地から悟らせようとしたものです(←「人間完成」という単語には違和感を覚えるが、あらかたここも同意)

 そこで、私が、本章で訴えたいのは、主として宗教的な悟りです。それは、もちろん、 哲学的な真理到達への願望と、道徳的なる人間完成への道をふくんでおります。しかし、宗教的な悟りにおいてもっとも肝要なことは、「悟り」が神仏との関係において語られる、ということなのです。

 つまり、悟りとは、神仏のつくられたこの世界の原理を究明しながらも、自ら自身が 神仏に近づいてゆくということです。そういう意味では、悟りには、限界がありません。つまり、「悟ったということは、永遠にありえないことなのです(←同意)。いくら努力に努力を重ねても、実在界すべてを解明することは、ほとんど不可能だからです。また、自らが神仏に近づいていく努力も、永遠のときを待たねば、不可能に近いからです(←同意)

 とはいえ、悟りにも、また、段階があります。 ですから、それぞれの段階において悟ったということは、可能です。そして、地上に肉体をもった人間としての最高の悟りというものはありうるのです(←確かに)

 そこで、私はこれから、人間としての最高の悟りにいたる階梯について、さまざまな説明をしてゆきましょう。

 現在の人類が記憶している、かつての大宗教家、大師のなかで、「悟り」というものを徹底的に追求したのは、二千五百数十年前、インドで法を説いた、ゴーダマ・シッダルタ、すなわち、釈迦牟尼仏です。釈迦が菩提樹の下で悟りをひらいて以来、八十歳でクシナガラ城外の沙羅双樹の下で入滅するまでの「悟り」の高まりは、さまざまな文献に伝えられております。しかし、そうした資料のほとんどは、それを思想的にとらえているだけで、実際の悟りの境地のなんたるかを伝えていないようです(←同意)

 心の世界は不思議です。私が心の扉を開き、自らの潜在意識層と交流できるようになってから、すでに、五年六ヶ月になります。この間、私は過去の聖者たちが思ったこと、行なったこと、考えたこと、悟ったことが、手にとるようにわかるようになりました。心の世界とは、実に不思議です(←同意)

 私には、釈迦が菩提樹の下でひらいた悟りの内容がどのようなものであったかが手にとるようにわかってしまいます。二千数百年のむかしのことであっても、それが、現在ただいまのことのように伝わってくるのです(←同意)

 本章では、主として、釈迦の悟りを中心としながら、現在の世界のなかにおける悟りというものを考えなおしてみるつもりです。そして、後世の方がたに、悟りに関する知恵を遺しておきたいと思っております。なぜならば、悟りへの方法論は、人類の過去からの遺産であり、未来人類への希望でもあるからです(←あらかた同意)

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

「何故それが恐いのか」根本をつきとめる。←元々「楽したい」のに、楽できないと分かったら……それ=楽しない方法を知る事自体が「恐怖」だということも理解できるのではないだろうか。

……根本を突き止めなければならない理由とは?←こんな作業、普通に楽したいだけで生きている人間にとって、嫌に決まっているでしょ??という話だ。】のつづきから

 一般に語られる個人的な感想や意見では、上記の「楽をしたい」という感覚よりは、「楽に生きたい」という表現の方が正しいのかもしれない。

 不肖私はこんな生来からか、プライベートでもそれが仕事であっても、相手が「話したい人」であれば、聞き役に回り、相手が話したがらないタイプであれば、自分が率先して話をする臨機応変型だった。それと同時に、私は自分が他人からどう思われようがあまり気にしないよう努めていた。それを気にしだすとキリがないくらい「気にしい」だった事もあり、小学生時代から「気にする自分」を手放すように訓練し、十代前半でほぼそれが達成された。

 そんな私は幼少期から「空気を読む」というよりは、「空気を聞いている」タイプで、それ故か他者の心の声が聞こえて来る体質だった。それ自分について考える事は、= 自身を曇らせる“事”であり、それが「雑音を侍らせる(辞書より【侍はべる】世話をしたりするためにそば近くひかえている) 原因だ」と分析している。その理由と具体的な説明は、動画で果たしたいと考えている。

(注:自分面、自身面、∴自分自身=面+面)

 人間は、「肉体」という障壁に守られていると思いがちで、「自分の内心の声」が、いかにして外に漏れ出ているか?の事実を知らない(また考えもしない)。それに加えて、より波動の低い考えは、聴き取り易い大きな声で聞こえて来るのだった。 R5/7/12㈬23:39