シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

15.シリウスから来た女part.2「水と油で“壁”ができる」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法」からの原文、赤字が私の解説等です。

[(3-22⑵)[太陽の法:9一念三千]…(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

 思い→想い→念いとだんだんに力を得てくるおもいの力があるわけですが、そこから、さらに一歩進んで、一念三千いちねんさんぜんということについて説明しましょう。

 この一念三千について、かつて、よく話をしていたのは、中国の僧侶・天台智顗ちぎ大師です。いまから一千数百年前に、天台智顗が、中国の天台山で一念三千論を説いていたのですが、そのとき、霊天上界において、彼を指導していたのは、実は、ほかならぬこの私でした。私が、そのとき、天台大師に伝えた内容は、だいたい、つぎのようなものでした。「人の心には、念いの針というものがある。この念いの針は、一日のうちで、さまざまな方向を指し示し、揺れ動いて、とまるところを知らない。仏門に入り、修行にあけくれている者であっても、若い美しい女性を見ては、心の針が揺れ動く。おいしそうな食べものを見ては、心の針が動く。念いの針、あるいは、心の針は、他人が自分より早く悟るの見ても、揺れ動く。師に叱られては、また針が動く。こうして、修行者の心はやすらぐときを知らない。

 しかし、人間のほんとうの悟りは、おおいなる調和とやすらぎのなかにあり、せわしく揺れ動く心のなかにはありはしない。天台智顗よ、汝、よく悟りて、人びとに念いの針、心の針の指し示すべき方向を明示せよ。念いの針が、四六時中揺れ動いては、人間には、ほんとうの心のやすらぎというものはないのだ。磁石がつねに北を指し示すように、心の針もつねに神仏の方向を指し示すべきである。北極星がつねに北の方向を人びとに明示するように、天台大師よ、人びとをよく教導して、神仏の念いを念いとして生きるように導きなさい。これが真の不動心であり、真の信仰なのだ。私が認識している指導霊は言葉では説かない。「言葉を吐きたがる=話し掛けたがる」のはほぼほぼ邪霊。言葉は「本心の世界」では不必要な“モノ”なので、言葉で話し掛けて来る何某か目には見えない存在は、あなたの「心の隙を狙って話し掛けている」だけだ。本来の修行に於ける「無に成れ」とは、そうした心の隙間を作らない事だし、作らせないように指導するのが指導霊等の役目、且つ処遇だ。「バカは大概にして黙ってろ」と言いたいが、死んでからでは遅い。生きているうちにこの大川隆法と名乗った男性に、本当の悟りへの理解を教え込んで死なせたかった。無念★

 心とは、まさしく不思議なものだ。(↑「信仰」なんて言葉を使っている時点で偽物。信仰を煽るバカ=邪霊に付ける特効薬はないが★)その念いが修羅のごとくなれば、心は阿修羅界という地獄に通じて、いつのまにか、闘争と破壊の人生を送ってしまう。

 心の針が色情の方向に固定化されると、その念いは、地獄の色情地獄に通じ、その針を伝って、地獄の亡者どもが、生きている人間の心に土足で入り込んでくる。その結果、生きている者は、あるいは女性に狂い、あるいは男性に狂って、亡者どもの情欲をはらす道具となりはてる。←これって、大川自身の事よね。よく知らない私だけど、奥さん差し置いて不倫して、挙句奥さんを追い出して2号?3号?とできちゃった人だよね?この人。本当の霊的指導者はそういう不義理は絶対にしない。こうしたいい加減が自分だけはやっても大丈夫だ!!と思い込んでいるのが、「偽教祖」だ。幸福の科学のいまだ信者の人も、もうそろそろ目覚められたら良いのに……って、洗脳されるとちょっとやそっとじゃ無理なのだろうか。

 神仏を求めていた者の念いの針が、どこかでねじまがり、増長慢(←まんま自分=大川隆法自身の事よね)となり、天狗となると、異説、邪説を説きはじめ(←これも大川隆法自身の話)、地獄の悪魔の声を如来、菩薩の声と聞きちがえ(←これも大川隆法自身の事)、人びとを迷わせては、自らも無間地獄に堕ちてゆく、あわれな求道者もいる(←これも大川隆法自身の事)結局「自身の体験談」か……これも、多分「他人事」で吐(書)いていたんだろうにね。

大川隆法は己自身の神懸かりを信じ込もうと欲し過ぎたばかりに、意図的に取り込(=)まれてしまったらしい。教祖かぶれは大抵ムシ地獄に陥る。で、人間に嫌われる虫の姿になって、自分タチ同士を「虫ケラ扱い」し、罵り合っている。ここは赤茶の鈍い灯りが灯る地獄界。

この世で言葉を習得した人間は、誰しも何か「自分のおもい」を理解してもらいたいし、“共有してくれる仲間”を欲し、探し出そうとする。

それはどんな「霊界=心の世界」でも同じ原理で、特に邪霊界には言葉による“重荷”を背負わされている地獄界からとにかく解放され、救われたいから、生きている人間なら誰でも聞いて欲しいし、それが解放してくれそうな誰かに出会ったら、余計に?余計な?言葉を沢山吐いて聞かせたい“モノ”なのよね。

……見えない相手がどんな“モノ”でも、たとえ神様らしきでも邪霊であっても、「言いたい者には言わせておけ」ば、それで良かった“モノ”を。……これだから「霊界がどんな所か?」を知らないど素人は、この世で簡単に詐称霊たちに騙されまくっちまうっつうの。

この浅ましさ全開な大川隆法は、ミイラ取りがミイラになった典型例だ★

こういう人物を、二度と世に出してほしくないと願っている。

だいたいこの世に生まれる際に霊界を覚えて来ない人、なんなら「自分がこの世に何を為しに来たのか?」等、果たす使命や役割等を覚えて来ないなんてあり得ない。何を為しに来たか?はキッチリはっきり覚えているし、知っているから「変な霊」にも唆されても迷う心なんかは持ってないよ。

無知故に、恥知らずなお上りさん風に生きるって、さぞ辛かっただろう★以下の文章はほぼ目を瞑る。)

 あるいは、念うことにつねに善で、天国の善人界(五次元霊界(←過去ログでこれは全否定しているが、これも正に「増上慢」だ))に心の針が通じ、天国の先祖や友人がつねに微笑みかけている者もいる。またある者は、人助けにつねに心を砕き、おごらず、高ぶらず、神仏の道を求めている。その者の心は、すでに天国の菩薩界に通じ、生きながらにして菩薩の境地にある。

 またある人は、神仏の正法神理を世の人びとに伝えることのみに心の針が定まり、その教え正しく、その人となりや清く、万人が手本とするに恥じない生き方をしている。その人の心は、すでに生きながらにして、如来界に通じ、天上界の諸如来が、つねにその人を指導している。

 このように、心の針は、不思議な働きをするのだ。天台智顗よ、汝、この神理をよく理解し、生きてゆく人びとの修行を助けよ。

 天国地獄(←真理を知っている人間は、「天国」と「地獄」を絶対にくっ付けて表記しない。これには邪霊界の階層に、光をダダ漏れさせ流用させる意図=狙いがある。要は悪用される。そうした流儀も知らない人に、真理は説けない。ああ、この人が説くのはは「カミ(付き)理」なんだったっけか★)は、死んでから死んでからあの世にあるのではない。天国(悪いけどここでは“離す”)地獄はこの世にあり。この心にあり。人の念いの針は、すなわち、これ一念三千、あの世の天国(“離す”)地獄に、即座に通じてしまうのだ。この真実を知ったならば、人びとは日々止観し、心を静め、自らの人生をふりかえり、自らの一日をふりかえり、その心と行ないを正してゆくにちがいない。

 天台大師よ、八正道は、まさしくこの一念三千論を基礎として生まれたのである。天国(“離す”)地獄があの世に還ってからではなく、この世に生きている人間の心のなかにあるからこそ、この世で生きたときの心が、そのまま、あの世での生き方を決めるからこそ、人間は、八正道を人生の基本として生きねばならないのである。

 八正道とは、すなわち、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、正しく生活をし、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入るべし。この八つの道をきわめてこそ、人間ははじめて、己れの心を正しくたもち、人間としての完成を見るのである。

 天台大師よ、この八つの道を基本として、自らの心と行ないを正し、真実の一念三千論を世にひろめなさい。それが汝にとっての悟りであり、世の人びとにとっての悟りでもあるのだ」

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

(「個人セッションが必要」と、私が判断した理由から)

“ふつう”が不通であり、通じ合わない最大の理由は、当然だが「肉体」という一人ひとりに与えられている「個室」のような障壁=塀=垣根=障害物等々の、隔たる「壁」が在るからだ。……この「壁」の持つ威力が、魔法のように「通じない何か」を生んでいた。】のつづきから

 心の世界では「いと(糸・意図)も簡単」にツーカーで沁み入る「何か」……肉体という「壁」がその何かを伝えない「この世」、それも「壁」。結局物質の正体は「壁」でできていた。それは細胞レベルでも同じ「リン脂質」←所謂「油の膜」だ。

 水と油は似て非なる“モノ”。神霊と邪霊ほどの全然「別物」だ。この水と油のような関係の「見分けが付かない」=「見分けられない」所が、この世に於ける霊的不自由さ=霊的自立ができない&叶わないもどかしさだった。

 それ故に「宗教」という名の牢獄に、いつまでも縛り付けられ、他者や他方を虐めvsいじめられ続けなければならない状況を生んでいた。そして「戦争」という形を含めた「対立の構図」を現在まで存続させられている。甚大な被害者数と大いなる自然の犠牲を伴ってまで。 R5/6/29㈭23:35