以下引用文(四角枠)内が「太陽の法」からの原文、赤字が私の解説等です。
[(3-21⑵)[太陽の法:8心の作用]…(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)
人間は、神の意思によってつくられた意識体であり、霊であり、魂なのです。そのことについては、私は、すでに何度も述べました。そして、魂の中核、中枢が心であることも説明しました。
以下、文字の構成から読める「小杉の解釈」を紹介します。
◦「想い」は“相”手へ向けた心、
◦「思い」は東西南北や上下左右等の区画(=四方)整理した心、
◦「念い」は“今”ある心、
を表していると解釈しています。漢字に関する解釈は、個々人の勝手なので、今回は以上です。
そこで、今度は、その心というものについて、さらに研究してみたいと思います。心の作用、心の機能という話になっていくはずです。
「想い」は、よく人に通じるといいます。つまり、心のなかで、ある人を好きだなと思っていると、その「想い」がいつの間にか相手に伝わり、相手もこちらに対して好意をもってくれるようになる。そういうことが、実際、ままあります。また、反対に、心のなかで、ある人をきらっていると、そのきらいな「想い」がいつのまにか相手にも伝わって、妙によそよそしくなってきたりもする。では、なぜそうした以心伝心ともいえるようなことが現実に起きるのでしょうか。その点について、考えてみたいと思います。
心の作用とは、実は、神が人間に与えた創造作用なのです。神はおもいによって、各次元構造をおつくりになった。三次元宇宙をつくられ、人間の魂をつくられ、人間の肉体もつくられたのです。人間そのものが、神の意識体の一部であり、ひとつの完結した小宇宙でもあるわけです。したがって、人間の心の作用は、すなわち、これ神の創造作用と同じ同種同根のものだといえます。つまりは、心のなかで考えること、思うことのひとつひとつが、この三次元宇宙空間と、多次元空間のどこかに、なにかを創造しているのです。そして、各人のおもいの総合体が、実在界をつくりあげている力となるのです。
ところで、おもいとひとくちにいっても、おもいにも、やはりいくつかの段階、程度の差があります。
まず、「思い」は、日常生活のさまざまな瞬間に、心のなかに去来する思いであり、各人の通常の精神活動の一環だといってよいでしょう。
つぎに、「想い」は、ある程度具体性のある考えです。「思い」が、海岸に一日中寄せては引いてゆく波のようなものだとすれば、この「想い」とは、ある程度、継続性があり、具体性のあるビジョンであり、それを視覚化し、映像化することができるものだということができます。「想い」は、ストーリー性をもっており、たとえば、流れてゆく川の水のように、継続性と方向性があるものなのです。
さらには、「念い」という段階があります。ここまでくると、念いも、はっきりとした創造性をもっています。また、それだけでなく、ひとつの物理的な力をもっています。いわゆる念力の「念」です。四次元以降の多次元世界では、この「念い」が神に似た創造作用をもって、いろいろなものをつくり出していますが、三次元世界においても、かなり物理的な力をもった精神作用だということができます。
たとえば、ある人をよい方向に導きたいという「念い」が集中してくると、その人の心境が一転したり、その人の環境が急転回して、好転したりすることが現実に起きてきます。また、逆に、ある人を「憎い」と念う「念」が集中化してくると、その対象となった人は病気がちになったり、運命が悪化したり、早死にしたりすることもあります。
これは、個人の場合ですが、集団でも同じことがいえます。この地上を仏国土、ユートピアにしたいと願う人が、何十万、何百万と出てきて、その「念い」が集中、増幅されてくると、地上世界の一角から光が出てくる。そして、人びとの心にその光が浸透して、どんどん幸福な世界がひろがってきます。そのため、この地上界が、「菩薩界」にとかわってゆくのです。
もちろん、この反対のケースもあります。この地上界が、人びとの悪い念い、すなわち、憎悪、怒り、利己主義などの念いで満ちてくると、どうなるか。霊眼で見ると、まるで雷雲を思わせるような、黒雲のごとき想念エネルギーが地上世界のいろんなところにポッカリと浮かび、この想念体が、さらに大きな混乱を地上に起こすための物理的な力にかわっているようです。
このように、人間の心の作用とは、すばらしいものであり、反面、こわいものでもあります。そのためにこそ、私たちは、自分自身をよくふりかえり、心の作用を確かめる必要があるのです。
「シリウスから来た女」の続編part2
【(「個人セッションが必要」と、私が判断した理由から)
本人にとっての認識と、他人からのその人に向けられた認識とでは、雲泥の差が有るといっても過言ではない。それくらい酷い認識の差があるのがこの世の感覚では「普通(=不通)」なのかもしれない。】のつづきから
一般的な会話で「“ふつう”……だよね」の“ふつう”は、よく使われる言葉だ。実際過去に私が初対面で遭遇した母・息子の会話での一コマを紹介する。
初対面のママさんとご挨拶した際、引っ込み思案な性格なのか、逐一ママの影に隠れようとする息子さんに対し、
「“ふつう”にしなさい」、「“ふつう”に言いなさい」、「“ふつう”に!!」
と、何度も“ふつう”に声掛けされていた。その“ふつう”を五度目に吐かれた際、私の方が何故か?堪忍袋の緒が切れてしまい、
「お母さん!!、『ふつう』ってなんですか??、『ふつう』って一体なんなんですか?!、その『ふつう』を私に教えてくださいよっ!!!」
と怒鳴ってしまった。すると、その息子さん(←就学前)は、鳩が豆鉄砲を食ったような表情をして私の顔を見て、次に会場だった大広間を小走りで一周して来て、私に「ありがとうございます!!!」と深々と頭を下げ、また走り出し一周して「ありがとうございます!!!」……これを計五回繰り返した。
その時のママさんは困惑した顔で何も語らず、それ以後私に近づいて来られることはなかった。……この時、私は本心から「そのママさんが使う『ふつう』という言葉の意味が分からなかった」。しかしその気持ちは息子さんとは共有していたと思えた。
結局各人にとっての「“ふつう”=普通」という言葉に対する認識は、他人からしてみると「“ふつう”=不通」であり、「全然通じ合わない」のだと、その時その息子さんに教えてもらった。
“ふつう”が不通であり、通じ合わない最大の理由は、当然だが「肉体」という一人ひとりに与えられている「個室」のような障壁=塀=垣根=障害物等々の、隔たる「壁」が在るからだ。……この「壁」の持つ威力が、魔法のように「通じない何か」を生んでいた。 R5/6/28㈬23:31