シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

13.シリウスから来た女part.2「三次元という“不通”の感覚」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法」からの原文、赤字が私の解説等です。

 

[(3-20⑵)[太陽の法:7心と魂の関係]…

 この項では、心と魂という問題に入ってゆきたいと思います。

 私はすでに、意識ということば、霊ということば、さらに、魂ということばを使ってきました。これらのことばの使い方(←前々から非常に引っ掛かって来たが、どうしてこの人が「ことば」等の記述に「ひらがな」を使って来たのか? ……日本語の根本原理や原則を全く知らされていないのだと私には観える。「邪霊の傀儡」とした証拠は、言葉=単語を真理に則って正しく表記できない、そこが最大の欠点なのだ。日本語の作法や規則を知れば知るほど、「真実」や「実相」とはどういう言葉遣いをするものなのか?が理解できるはず、少なくとも教祖と名乗るのであれば尚更の事。胡散臭さを撒き散らして来たこの人の言葉遣いは、相当罪深い事も露呈されている。日本語が世界共通語になって良い理由としては、そうした創意工夫やその仕組みが、霊的な世界を上手に、何なら完璧に真髄として表せる所で在る。俄か野郎の不手際も完全に見切った。この後も何が記されてあっても私の心はびくともしない。ああいち早くこの作業が終わることを願っている★)は、必ずしも厳密なものではありませんが、意識→ 霊 →魂となるにつれて、だんだんに人間的属性が強くなってくると考えていただいてけっこうです。

 それでは、魂と心とは同じなのか、ちがうのか。そのことについて、説明していきましょう。

 結論からいえば、心とは、魂のなかの中核部分だといえます。人間の身体の中心に心臓があるように、魂という人体に相当する霊のなかには、心という中心部分があるのです。心は、頭のなかにあるのでもなければ、大脳のヒダや脳細胞のなかにあるわけでもありません。

 その証拠に、人間が死んで、あの世に還っても、生きていたときの記憶は、少しも失われません。肉体が滅失したら、大脳の組織も当然この地上から姿を消し、焼かれて、大気中の二酸化炭素かなにかになってしまうはずです。 しかし、大脳が失われても、魂は考えることができるし(←ばっかじゃねーか、これ。魂は記憶媒体装置だから、魂が何かを考えるはずがない。魂の中の意識、つまり意志や意思の力がそれをするの!!)、感じることも、記憶することもできるのです(←まぁ「知らない」とかもね)つまり、脳というところは、さまざまの情報をファイルしてある整理棚であり、情報コントロール室だということができます。ですから、情報コントロール室である脳が損傷を受けると、人間は合理的な判断、行動ができなくなります。なぜならば、肉体組織の指揮命令系統が混乱におちいるからです。

 たとえば、脳の外傷によって精神病になった方がいるとしましょう。その方の身内は、もう本人にはなにをいってもわからないと考えているかもしれません。しかし、実は、ちがうのです。精神を病んだとはいえ、その方には、家人がいっていることがわかるのです。つまり、心によって、魂の中心部分を通して、すべて理解しているのです。ただ、理解しているということを表現できなくて、暴れているに過ぎません(←この人、邪霊や悪霊に取り憑かれている人間に対して、警告を発していた人ですよね?なのに、こんな感じの文章でいいんですかね?)。ですから、生きていたときに、身体的理由で 精神障害者となっていても、死んであの世に還れば、健全な人間同様の思考活動をしております。

 心が脳にないとして、では、心は心臓にあるのでしょうか。魂が心を認識するとき、心臓は、確かに位置的感覚としては心に近い部位にあります(←本当にこいつバカ。心で全部が全部できているんだよ。元々が「心霊“体”」の上に肉体が被っているんだから、それが霊主体従。どうしようもないね、ほとほと呆れる。こんな奴が大勢の聴衆を魅了し、その魂まで洗脳しているんだから★この洗脳を解くのが一苦労だ。今その真っ最中だけど★☆彡)。しかし、本来、心臓とは、体内の血液の循環をつかさどる器官であり、 心そのものではありません。ただ、むかしからよくいわれているように、心が動揺すると心臓が早鐘のように打ちはじめたり、悲嘆にくれると心臓が圧迫され、胸が苦しくなったり、あるいは、あまりの恐怖に心臓が凍りつくになったりすることがあります。 また、うれしいとき、悲しいときに、体がカーッとあつくなったり、涙がこみあげてくるのも、心臓のあたりからです。

 こうしてみると、心臓は、心そのものではありませんが、心と密接な関係にある、霊的に影響を受けやすい身体の器官だということができます。ですから、もし、魂を人体様の形状をとっているものだと想像するならば、心の部位は、やはり胸のあたりにあり、 ここで主として、意志、感情、本能、理性、悟性の各領域をつかさどっており、心の出先機関である脳の部位にある魂のもうひとつの中枢を通して、魂全体に指揮命令をくだしているのです。

 霊とは、もともとは、形なきエネルギー体なのですが、人体に宿ることによって、魂という人体状の想念体をつくり、その中心に「心」をすえて、人生修行を行っているのです。注釈:言っておくが、日本の言葉で「真理」についての物事を記す場合、こいつのような「最後に辻褄を合わせれば良いや」的な「帳尻合わせする日本語表記や表現」には決してならない。全部が全部「輝いた文章になる」ので、読む側一人ひとりの霊道としての中道に、その光が差し込んでその人の気として循環していくので、浄化(=洗われる)作用がある。こいつの文章には「さすが似非“モノ”」としての鈍い緞帳のような膜がある。よって読んだ人間の鼓膜や視界を自分の“モノ”化して憑依していく=洗脳していく技術があるように見受けられる。何にしても「狼霊にも大した技量(が与えられているよう)だ」と感心させられる。

 地上で生活しているみなさんは、霊とか、魂とかいうと、頭から否定してかかることが多いようですが、「心」の存在は、なかなか否定できないはずです。心は、大脳の皮質のなかにあるのだと唯物的に考えている人でも、たとえば、悲しいとき、「いま、自分は悲しむべき状況におかれているから、涙を流すべきである」と思ってから涙を流すわけではないはずです。

 悲しいときには、やはり胸から悲しみがこみあげてきて、ワッと涙が出るの普通でしょう。また、思いがけずなつかしい人に会ったら、胸からカーッとあついものがこみあげてきて、思わず抱きついてしまうのではないでしょうか。つまり、それは、大脳皮質の作用ではなくて、心の作用なのです。この心の神秘について、私は今後、数多く語りつづけていくつもりです。←ホントやめて欲しかった。

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

(「個人セッションが必要」と、私が判断した理由から)

これまでの神への忠義みたいな「信仰心」は不要、逆に「信仰心みたいな感情」は、持っている方が色々と感覚的な邪魔をするので全くの無用なのだ。それよりも何よりも、私の使う日本語が、「分かるか?分からないか?」がカギで、それが非常に大事であり、且つ切実な問題なのだった。】のつづきから

 

 しかし「私の使う日本語」……というところが、実際は最悪であった……←これに関しては、しばし脇へ置いておくこととして……。

 いつぞやの記事で私は、

Aさんの発言「 私って“バカ”なのよね〜」

↑ これに対し、それを聞いた

Bさんの内心「へえ〜こいつ(=Aさん)って、“バカ”なんだ〜」

と、相手の告白を即行鵜呑みし信じてしまうBさんの方が、おバカを認識しているAさんよりも、おバカ度は高い……というような内容を記した。

 ここで、大川隆法が説明してくれなかった「三次元」という世界観(=世界をどのように捉えているか?という観察眼的要素)についての原理原則についてを説明してみる。

 まず1次元は「点と線(・ー)」であり、1次元を複合させて発展した次元が二次元と呼ばれる「平面(◇□)」的な世界観だ。この二次元世界で発展させた“モノ”が、絵画や漫画、記事や書籍、図面等だろう。これらの認識は、科学的にも成立している(はずだ)。

 上記1次元と二次元が基本(=基盤=基礎)として在り、その上に「三次元」という世界が成り立っている。これについては多くの人たちにご納得いただけるだろう。

 ……で、私たちが存在している「三次元世界」の各人の感覚は、人によってそれぞれまちまち(=区々)であり、肉体の中に住んでいる一人ひとりの認識やその能力は、その個人によっても全く異なる様々な世界観から成立させている。……と、ここまでは大丈夫か?

 さて、この三次元での「各人の感覚」、それは「霊的感受性」とでもいうべきか?、はたまた個人的な能力とでもいうべきなのか?……その感覚的な感性は、ほとんど本人の認識の無いところで成立させている、それが事実として在る。だが、本人にとっての認識と、他人からのその人に向けられた認識とでは、雲泥の差が有るといっても過言ではない。それくらい酷い認識の差があるのがこの世の感覚では「普通(=不通)」なのかもしれない。 R5/6/27㈫23:51