以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)
[(3-39⑷)[太陽の法:6一即多・多即一]…
人間の修行としては、正思・正進・正念・正定が、最大限に深まった段階、愛の発展段階でいえば、存在の愛の段階にいたった場合の「悟り」についての話をしたいと思います。つまり、本項では、如来界の悟りそのものに言及するつもりです。
菩薩の境涯までは、魂に対する認識も、ある程度、人間としての姿、形にとらわれています。霊とは、本来、形なきエネルギー体であり、姿なき知性(←アホか?!! なんて!! 非常識な!!!★霊なんかが「知性」のわけがない。むしろ正反対「無性」の方だ。つまり感情その“モノ”が霊だ★本物のバカが。死んでるからって許せない。もう本当にアホも休み休み言えって★これだからこの作業が嫌で嫌でたまらない。一刻も早く終わらせてくれ〜!!!!!って、多分これを読んでくれている貴重な方々も、うんざりされていらっしゃる事でしょうが、やっている私が一番うんざりしています。……愚痴にして吐き出さないと続けられないエグさなので、本当に悪しからず★以下、ダメ出す気力失せた。申し訳ない)です。しかし、長年の転生輪廻の過程で、人間として数かぎりなく生まれかわったために、人間的な形をした魂という姿にしばられる霊も多く、機能的には、本来の自由自在さを失っているといえます。
すなわち、七次元の菩薩界では、まだ人間としての姿をとって、あの世でも修行しているのです。人間には、手が二本あり、足が二本あり、着ている衣服もあって、髪形もあれば、目鼻だちもある。こういう具合にしか自分自身を認識しえない段階にあるのが、大部分の菩薩です。人間の姿、形をしていないと、やはりあの世でも落ち着かないのでしょう。ですから、彼らは徳性が高く、指導力も非常に高い方がたなのですが、その力には、どうしても、人間的な霊力の限界があるのです。
しかし、八次元の如来界に入ってくると、少し事情が異なってきます。如来界の人たちは、自分たちが、人体の形をした霊魂ではないことを知っております。それは、長年の転生の過程で、人体に宿ったという記憶でしかないのです。また、如来たちは、霊というのは、知性あるエネルギー体であり、 姿、形なき光の束であることを、知識的に知っているだけではなく、生活実感としても知っております。
たとえば、地上生活をしている霊能者が、肉体を離脱して、魂として、八次元如来界に来ることができたとして、そこで、なにを見ることができるでしょうか。八次元如来たちは、地上人に対しては、地上人にわかりやすいようにと、彼が、生前、地上で生活していたときの姿であらわれます。 そして、彼を自分の住居に連れて行って、コーヒーをすすめたり、ワインをすすめたりします。そのコーヒーやワインは、たいへんおいしくて、地上では考えられないような香ばしいかおりがしています。そこで、その地上から来た霊能者は、つぎのように報告するのです。
「八次元如来界というのは、ほんとうにすばらしい世界です。住んでいる人たちは、みんな、神々しい。道路にはルビーがしきつめられており、建物のいたるところにダイヤモンドを散りばめてある。 飲みものは、地上界にはないような馥郁とした香りがたち込め、テーブルはと見れば、これまた、輝くばかりのすばらしい大理石です。しかも、部屋の四角を支えている柱は、みごととしか表現しようのない水晶なのです」
近代におけるヨーロッパの霊能者として、令名をはせたスウェーデンボルグという方も、こういったたぐいの報告をしているはずです(←読破しているくせに白々しい)。しかし、これはまだ、その人の霊的認識能力の不足であり、さらに目をこらして、風景を凝視すると、宝石に飾りたてられた建物も、道路もかき消えて、ただ如来界人がニコニコと立っているだけなのです。また、さらに一段と霊眼をこらしてゆくと、その如来界人の姿も消えて、そこには、巨大な光の塊があるだけです。つまり、ルビーやダイヤモンドといった宝石は、地上の人へのサービスをかねて、三次元的に翻訳した世界を見せているだけなのです。
このように、如来界人の悟りは、形なき実体として、自己認識できるまでの段階にきております。ですから、地上に住んでいる人間で、もし如来としての悟りを得ている人がいるとするならば、如来界の法則に気づいているはずです。
如来界の法則とは、「一即多・多即一」の法則なのです。つまり、この世界では、数でいう「一」というのが、客観的認識としてはありません。ですから、「一」かと思えば、それが「十」であり、「万」である。「千」かと思えば、「一」であったりするのです。客観的事実ではなく、絶対的な存在、すなわち、意識の作用の数だけの数が存在するのであり、それを統一する意識体のみが、その実態を知っているのです。
もう少し、わかりやすく説明しましょう。たとえば、ひとりの如来がやるべき仕事が十あれば、十人となってあらわれ、一万あれば、一万人となってあらわれるということです。しかし、たとえ一万人としてわかれ出ても、それをひとりとして認識する統一した意識があるということでもあるのです。
近年、日本に生まれた京都学派の哲学者である西田幾多郎という方は、哲学的研究の結果、こうした如来界の法則について、気づいていたようです。もちろん、彼自身が、本来、如来界の人間であったために、彼自身の潜在意識が、そうした世界があるということを教えていたのだともいえます。
この八次元如来界では、絶対矛盾の自己同一ということが、可能な世界なのです。視覚的には、バラバラで相矛盾しているように見えるものが、直覚的統一でひとつになるような世界、それが如来界ないのです。哲学者・西田幾多郎は、その生前において、この如来界の悟りを、どうやら得ていたといえます。←なんかかんか言っても、「俺(=大川)が1番知っているようですね」と言いたいみたいに聞こえる。
ちなみに。この大川隆法の文字起こし作業は、なるべく午前中に済ませることにしている。が、これらの文章自体がそもそも「真理」じゃないから、頭の中に垢が溜まって来るので、その垢を取り除くのに「寝る」のが一番手っ取り早い除去作業になる。本当の「真理」は光が降りて来るので、頭の中まで光って来るので、色々と見えない状況まで見えて来るようになっている。当ブログをお読みいただく方々に、そうした作用があること&起きることを期待している。……一応お知らせまで。
「シリウスから来た女」の続編part2
31.【今だから説ける「真実を伝える言葉」に置換・変換させてみる。】のつづきから
第四回資料より引用( : 第二センテンス以降、一行毎にナンバリングあり)
(智慧とは……“仏”の知恵。)
①◦「布施をすること」……見返りを求める「心」を捨て、自ら進んで「人の為が自分の為」と心掛けて行う「行動」。
②◦「戒律を守って生活すること」……“今”という瞬間を大事に、その時々に必要な「行い」をすること。
③◦「耐え忍んで生きること」……自分自身の我がままに、振り回されないで生きること。
④◦「努力すること」……常に「進化」を志すこと。
⑤◦「集中して物事を行うこと」……“今”を意識して「苦」ととらえず、“チャンス”だと認識し、実行する。
⑥◦「これら5つの方法を実践することで得られる智慧」
↑今更だが、これは一つの考え方として受け取ってもらえたらそれで良い。こんな事にしがみ付いていても、あまり埒が開かない。今日は本当のホントに悪しからず。 R5/7/19㈬22:27