以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)
[(3-35⑷)[太陽の法:2悟りの功徳]…以下今回は、私としてもほぼほぼ同意する内容でしたので、特にありません。
私たち人間は、一体なんのために悟ろうとしているのでしょうか。もし悟れたとして、そこから、一体なにが得られるのでしょうか。このことについて考えるためには、まず人間本来の目的と使命という点から考えていくことが必要です。
その出発点は、なぜ人間はこの世に生まれてきたのかということにあります。なぜ肉体をもって生まれてきたのかということにあります(←またしても何故“2”回★)。
私たちは、人間として生まれてくる以前、天上界において、霊として自由自在な生活をしていたのです。天上界では、食物をとらなくても、死ぬことはありません。お金もうけをしなくても、路頭に迷うことはありません。母の胎内にて、十月十日苦しむこともなく、幼くして、ものごとの判断がつかずに泣いてばかりいる必要もない。青春期の性の苦しみもなければ、親子の葛藤もない。経済的な苦しみはなく、職場で人に使われる苦しみもないし、いやな人と会う苦しみも、好きな人とわかれるかなしみもありません。老いるかなしみ、病気の苦しみもない。さらには、醜くなってゆく苦しみ、子や孫にすてられる苦しみ、配偶者と死にわかれる苦しみ、やがては、自分自身も死んでゆかねばならないという恐怖に対する苦しみ。天上界とは、こうした苦しみがなにひとつない世界なのです。
天上界では、お互いの心がガラス張りで、だれからでもわかるため、不調和な心をもっていたのでは、とても同じ世界にはいられなくなります。したがって、毎日会う人びとは、みんな、自分と気心がしれたすばらしい人びとです。そこでは、お互いが愛しあい、生かいあう世界です。
また、霊人たちは、自分の年齢は自由自在であり、ほしいものがあれば、念えばすぐ目の前にあらわれてきます。そして、すべての人が、少しでも神理に目覚めようと、それぞれの段階において、修行にはげんでおります。
地獄界にいる不調和な霊たちは、決して地上界に人間として生まれ出ることはできません。彼らの心は、闘争と破壊の心であり、そのような心でもって、人体に宿ることは決して許されてはいないからです。
では、この地上に生まれかわるためにはどうするか。まず、少なくても、四次元幽界(精霊界)の住人であることが必要とされます。そして、天上界の人間として、自らが霊的な存在であり、神仏の子であるということを多少なりとも悟らなくては、この地上に生まれかわることはできません。したがって、最低限、なすべき反省がおわっていない場合には、そういう人は、転生できないのです。
このように、地上に生まれかわるということは、天上界にいる者にとっては、当初からひとつの試練だといえます。また、長年地獄界にいて、やっと反省をおえた霊にとっては、人間として再出発し、もう一度やりなおせるチャンスでもあるのです。
ですから、地上界というのは、ひとつの修行の場なのです。天上界で自由自在に生きていた霊にとっては、肉体に宿るということは、すなわちこれ、自らの霊性、神性が試されるときなのです。自分の霊的なる覚醒が、はたしてほんものかどうかが、徹底的に試される場なのです。霊的に自由自在のときに、神仏を信ずることは容易です。しかし、この三次元の物質世界のルールの中で生活して、一体どれだけ四次元以降のルールを悟れるか。神仏の力を悟れるか。神仏の力が働いている世界であることを悟れるか。それが徹底的に試されるのであり、この試験にパスしてはじめて、人間は、もといた世界以上の高次元世界へと還ってゆけるのです。
長年、地獄界で苦しんでいて、やっと反省の境地に到達し、神仏の子である人間としての最低限の悟りを得た人びとは、「今度こそ立派な人間になってみせる」と意気込んで、 この地上界に生まれてきます。しかし、三次元の物質世界の荒い波動に強い影響を受けて、神仏の子としての自覚を得ることのないまま、深く欲望の世界に耽溺し、再び天上界に還って来ることなく、さらに暗黒の地獄とくだってゆく人もおります。
この三次元の物質世界、現象世界というものは、それだけきびしい修行の場だといえます。しかし一方では、救いもあります。実在界においては、決して会うことのできない人びとが、この三次元世界においては、一堂に会する。そういうチャンスがあるのです。肉をもった光の大指導霊に会うこともできるし、地獄のサタンに心が通じている人びとに会うこともできる。こうした人びとが、同じスタートラインに立って、オギャアと赤ん坊として生まれて、平等に人生をやりなおす機会が与えられているのです。すなわち、悟りの功徳とは、人生のやりなおしがきくというところにあるのです。
「シリウスから来た女」の続編part2
前回記事へ、ともさんから以下のご質問をいただきました。(前後は抜粋)
【【それ自分について考える事は、= 自身を曇らせる“事”であり、それが「雑音を侍らせる(辞書より【侍はべる】世話をしたりするためにそば近くにひかえている) 原因だ」と分析している。】について質問です。
この【それ自分について考える事】というのが分かりませんでした。
私は、「相手から聞こえてきた、自分のことをどう思っているか?という内容について考えること」か「心の声が聞こえる自分の体質のこと」なのかと考えました。全然違っていたらすみません。】
ともさん、私の説明不足から貴重なご質問をどうもありがとうございます!!
ということで、今回は前回の続きとして、こちらから回答させていただきます。
【それ自分について考える事】←これに対する私の真意は、ともさんの後述のご意見【「心の声が聞こえる自分の体質のこと」】でした。
「それ自分について考える事」が、「①どうして雑音になるのか?」、また「②『侍らせる』とは?」について、もう少し詳しく説明してみます。
①について。
前回記事のタイトル「内心の声も外に漏れ出る」←これは、日本語=文字化して考えている事が前提です。なので、言語として文章化していない内容、もしくは単語化させていない内容については、「ただ悶々としている」=「“雲”」のように背景的な要素になり、それもやはり自分自身の霊的環境を曇らせています。これはなんとなくご理解いただけるのではないでしょうか(←あくまでも希望的観測★)。
②について。
こちらは、注として括った
(注:自分=内面、自身=外面、∴自分自身=内面+外面)
↑この内面と外面の区別や、その両方共で、なんらかの障壁として「自分+自身」=「個人の霊的環境」を作っている、という意味で記しました。
ともさん、こんな説明で大丈夫でしょうか?……さらに疑問等ありましたら、またどうぞコメントしてみてください。
みなさんも、相変わらずの私なので、わかりづらい表現等がありましたら、ご遠慮なさらずコメントしてみてください。
ということで、今日はこれまで。 R5/7/13㈭23:15