シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

37.シリウスから来た女part.2「スピラー?霊能者?」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-41)[太陽の法:8釈迦の悟り⑴⎯⎯大悟]…

 九次元宇宙界の悟りに入る前に、二千数百年前、インドで、ゴーダマ・シッダルタ、すなわち、釈尊の得た悟りについて、まず、お話しましょう。

 釈迦は、二十九歳で出家します。それから、六年間の難行苦行のはて、苦行をすて、菩提樹の木の下で悟りをひらいたのは、釈迦が三十五歳のときです。彼は、約一週間にわたる反省的瞑想ののちに、ある夜、夜中の一時ごろから深い定に入ってゆきます。そして、そのときに得た悟りというのが、つぎのようなことでした。

「私は、長年にわたって、食べるものをろくに食べず、飲むものもろくに飲まず、肉体を極限まで苦しめ抜いたときに、精神的な飛躍が得られる悟れる、と思って苦行をやってきた。

 六年前に、妻ヤショーダラ、子ラフラをすて、父王シュートダーナァーのあとつぎの願いをふりきって、カピラ城を抜け出して以来、すでに六度目の春夏秋冬を経験した。カピラにいたころの私は、筋肉隆々で、文武両道にひいでていたが、いまの私の姿はどうだろう。アバラ骨は浮き出し、目は落ちくぼみ、 肉体は骸骨のようだ。

 もし肉体を苦しめることが人生の修行ならば、人間は、肉に宿って生まれてくること自体がまちがいではないのか。もし神仏が私たちの肉体を否定することを願っているならば、自殺者こそ、最高の覚者といえるだろう。

 しかし、自殺によって得られる結果はなんだろうか。大宇宙の法則は、原因結果の連鎖のなかにあり、悪しき種をまけば、悪しき実を刈りとらなければならないことは確実である。自殺によって、苦しみという新たな原因をつくれば、あの世の地獄界でも、のたうちまわるような苦しみが待っているにちがいない。自分自身の肉体を苦しめる難行苦行は、緩慢なる自殺行為そのものではないか。

 仏の境地がやすらぎの境地であるならば、苦行のなかにはやすらぎはない。苦行のなかには悟りの因はない。六年間の修行の結果、私の得たものは、人目をおどろかすような醜悪な容貌と、眼光鋭く人を射るようなまなざしだけだ。苦行によって得られるものは、きびしさだけであり、他人に対して向けられた矢のようなきびしい視線は、そのどこにも、愛と慈悲の片鱗さえうかがわれない。

 自分自身の心がやすらいでいないで、自分自身の心のなかに幸福感なくして、一体どうして他人に対して、真にやさしくし、真にいたわることができようか。

 しかし、自分のなかの幸福感とは、一体なにか。カピラ城にいたころ、王子として、みんなの者からちやほやされ、金も、女性も、物質も、なにもかも自分の自由になったとき、はたして、私の心のなかには幸福感があっただろうか。

 そこにあったのは、ぬるま湯的けだるさであり、私の心はつねに飢え、つねに渇いていた。いろんな人びとの思惑だけがあれこれと入り乱れ、私の心は、つねに葛藤のなかで揺れ動いていた。やがては必ず王となる自分の身の上。そのときは、カピラの人びとを率いて、隣国とも戦い、その結果、多くの人びとの血が流れることとなろう。

 この世的な地位や名誉を求めても、そこにあるのはむなしさだけだ。カピラの日々は、私にとって、決して幸福な日々ではなかった。精神的には満たされず、不安と、焦燥ばかりがつのっていた。停滞と惰性のなかに、人間のしあわせはない。人間のしあわせは、日々、精神的に進歩するなかにある。この世的な立身出世ではない。神仏の心にかなった、自分自身の霊性・神性の向上のなかにこそ、神仏の子として生まれた人間のほんとうのしあわせはあるのだ。

 神仏の子・人間としてのほんとうの悟り、ほんとうのしあわせは、優雅な王宮の生活のなかにはなく、極端な難行・苦情のなかにもない。極端に肉体をよろこばす生活のなかにも、極端に肉体を痛めつける生活のなかにも、ほんとうの悟り、ほんとうのしあわせ、ほんとうの心のやすらぎはありはしない。

 真の人間の生き方は、左右の両極端をすて、中道のなかに真理を発見してゆく生き方である。人間として均整のとれた生き方のなかにこそ、中道があり、そこにこそ、苦楽を去った大調和の世界が現出するのである。

 人間がほんとうにめざしている生活は、大調和の世界であり、すべての人が苦楽の両極端をすてて中道に入り、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、正しく生活をし、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入るという八正道を実践してこそ、ほんとうの心の王国ができ、ほんものの仏国土ができるのである。

 そして、人間のほんとうのしあわせとは、日々の精神的よろこびのなかにあり、日々の精神的向上のなかにあり、八正道の奥をきわめてゆく途次にこそ、幸福感は高まっていくのである」のである」  ……何故か全文が釈迦本人の言葉に思えた。そして私がアンダーラインを引いた最後の部分に関しては、私がいまもこの世で目指している精神だ。不思議と同感している。

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

 第四回目(2006年H18年3月度)までは拙い資料を使って、私が本来「この世でしなければならない」と課していた「真理の話」を、個人的にセッションすることで、お一人ずつ丁寧に……と、こう言ってはなんだが、私が「上からおろす真理の話」を、何故か「スピリチュアル」や「霊能者」と勘違いしているど素人の方々へ、どうにか通じる言葉で話さなければいけない事に、確かに相当な違和感は感じていた。

 だが、それも「話し続けていれば、そのうち分かってもらえるのではないか?」という淡い期待を抱くことで、その違和感を打ち消していた。それは、私サイドの都合による「勝手な判断」だった。その淡さ=甘さに、付け入られたかのような「衝撃的な出会い」が、その3月にやって来た。

 そもそも地元高坂地域での人選と、東京板橋で快く「会場にどうぞ」と使わせていただいたとある美容室での人選は、全く異質なものだった。東京板橋では、私の意に反して「霊能者の扱い」となっていたようで、それ狙いでお願いされてしまった案件がその衝撃的な出会いだった。 つづく R5/7/21㈮23:38