シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

24.シリウスから来た女part.2「第3回個人セッションのテーマ:『恐怖』とは(←女性が抱える大問題)」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-31⑶-1)[太陽の法:8愛と八正道]…

 私は、第2章で、真説・八正道を説きました。そしていま、愛の発展段階説を論じました。そこで、これからのこの両者の関係について話してみたいと思います。

 真説・八正道のなかでは、人間として正しく生きていくための八つの道があることを話しましたが、これもまた、日々の悟りの材料であり、悟りへの道なのです。一方、愛の発展段階説では、修行の対象として、「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」「存在の愛」の四段階があることを説きました。

 この両者をくらべてみると、八正道のほうは、日々の修行であり、日々の悟りを重視しているのだといえます。。そして、愛の発展段階説は、日々の生活に端を発しながらも、ある程度、中期、あるいは、長期的な目標もあわせもっていることが指摘できると思います。

 八正道による悟りへの道を、あえて愛の発展段階説による悟りへの道とくらべるならば、つぎのことがいえるでしょう。

 一、正見、正語は、愛する愛の段階である。

 二、正業、正命は、生かす愛の段階である。

 三、正思、正進は、許す愛の段階である。

 四、正念、正定は、存在の愛の段階である。

 そこで、それぞれがどういうことかについて、その意味を説明していきましょう。

 まず、なぜ正見、正語は、愛する愛の段階だといえるのか。愛する愛とは、自分が当然関心をもつべき対象に対する愛です。そこで、相手に対して、適切なる好意をもつためには、まず、相手を正しく見ることからはじめなければなりません。相手が、いま、なにを欲しているのか。いま、相手がこまっていることはなんなのか。それを正しく見ることです。正しく見ることができたら、今度は、正しく語ることです。つまり、相手に対して、適切なアドバイスをする。相手の心をあたたかくするようなことば、こまっている相手を立ち直らせるような適切なことばを使うことです。

 つぎに、正業、正命は、生かす愛の段階です。正業とは、正しく仕事をなすことですが、正しく仕事をなすとは、一体どういうことでしょうか。人間は、仕事をしなければ生きてゆけないようになっています。生活の糧を得るためにも、人間は働かなければ生きてゆけないようになっているのです。(←何故か?2回同じ内容を繰り返し強調している。それで説得力を持たせたつもりになるのはなぜか?=持論が辻褄を合わせられるほどの証明する手立てがないから。それほど持論展開が破綻しているので、説明義務が果たせない)つまり、正しく、仕事なすとは、神の子としての使命感にもとづいて、世の人びとに対する感謝行として、なにか役に立つような仕事をするということなのです(←これも思い込み)

 正命とは、自らの命を正しくまっとうすること、すなわち、正しく生活することです。人間は、自分ひとりだけで生きてゆくことはできません。自分ひとりだけで生活してゆくことはできないのです。(←「正しく」がどのような基準によるものなのか?説明がない。「上記の手法=2回繰り返す」はこれまで何度も使っている手だ。それでウケを狙っている芸能人も居る) さまざまな人に助けられて、さまざまな人とともに、共同生活をし、生かしあっております。すなわち(「すなわち」も乱用し過ぎる嫌い)、正しい生活のなかにこそ、生かしあいがあり、生かす愛の実践の場があるのです。お互いに導きあうべき場があるのです。かくして、正業、正命は、主として、生かす愛の段階にあるといえます(←誘導)

 第三に、正思、正進は、許す愛の段階 です。まず正思⎯⎯正しく思うということ、つまり、人間関係を真実な目で見て(←先ずは「真実を見抜く“目”」を作るのがいかに大変な作業か?を知らないらしい★……もし、そのような「真実を見抜く“目”」を培っていたら、その人は宗教、もしくは誰の教義も当てになんかしないだろう。自分自身が身を置く、その基礎や基盤がしっかりできているという証だから。以下も然り)、調整しようという思いが、この正しく思うということなのです。相手の現象人間としての姿にまどわされず、実相世界の住人としての真実なる姿を心に描き、その人間との正しい関係のあり方を考える。お互いに神の子同士として、本来のあるべき姿を思う。そこには敵はなく、そこには許すべからざる悪人はいないはずです。正しく思うということができれば、心はつねに寛容で、あらゆるものをつつみ込むような、豊かな気持ちになれます。だから、心は自然に、許す愛の境地へと高まってゆくのです。

 正進もまた、同じです。正進⎯⎯正しく道に精進するということは、日々神理の獲得のために努力、邁進するということであり、その結果、日々に悟りの境地が深まってゆくのです。神仏への道に対して、正しく精進するとき、そこには怒りなく、そこには愚痴なく、そこには不平不満なく、そこにはねたみなく、ただ大調和の世界が地上に湧出するのみです。すなわち、心は、つねに不動心をたもち、罪ある人をも、本来罪なしと許せるだけの境地だといえます。ですから、正進に磨きがかかればかかるほど、まさしく、許す愛の境地はひろがっていくのです。(後半あり)

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

 先ず三回目個人セッションのテーマを「恐怖」にしたか?の理由から。

 第一回に「良い人」を選んだ理由は、既にご紹介した。第二回の「不幸」に関しては、女性陣の生き方の中に、何か自分自身と向き合うことを恐れる嫌いを感じて来た故に、それをテーマに選んだ。

 さて、約20名程の方々と、一回、二回と個人セッションをして来た私が、皆それぞれに言える事、自分自身と向き合わない、向き合おうとしない「魂胆」とは、「恐怖」が原因だと思えたからだった。

 その資料が以下だ。

第三回個人セッション資料

↑ この資料の内容が、いったいどれくらいの方々の心に響いてくれるだろうか?? R5/7/8㈯23:28