以下引用文(四角枠)内が「太陽の法」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)
[(3-28⑶)[太陽の法:5愛に敵なし]…今回の以下は、大川独自の考え方を披露している内容と読めるので、敢えてツッコミ等は致しません。
愛は最大の力であり、愛には敵なしなのです。そこで、私は、愛が無敵であることについて、お話したいと思います。
人間は、生きてゆく過程において、さまざまな困難にぶつかります。つまり、そうしたなかで、魂の修行をしていくわけです。これは、あらかじめ計画されていることです。困難とは、どういうものでしょうか。すなわち、病気があり、貧困があり、挫折がある。失恋があり、事業の失敗があり、友人との離反があり、愛する者との別離がある。きらいな人との出会いもあります。さらには、年を取り、醜くなり、体が不自由となり、やがては死んでゆくのです。
こうした現象を現象とだけ見れば、人生とは、苦悩と悲しみに満ち満ちているものかもしれません。しかし、苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです。つまり、苦悩や悲しみがあるということは、私たち人間に、選択をせまっているのです。選択とは、なにか。つまり、私たちのひとりひとりが、与える側の人生を選ぶか、与えられる側の人生を選ぶか。その選択です。
愛の本質とは、やはり与えることなのです。愛とは、神が人間に与えてくださったものを、自分ひとりのものとだけしておかずに、人にわけ与えるということなのです。神の愛は無限です。ですから、私たち人間が、その愛をいくら与えても与えても、つきることはありません。神は、私たちに、愛を供給してくださっているのです。
愛の本質とは、まず、与えることなのです。この点を、よく理解していただきたいと思います。
愛に苦しむ人びとよ、よく聞きなさい。なぜあなた方は、苦しむのですか。なぜ愛において苦しむのですか。愛を与えることによって苦しむのですか。みかえりを求めてはいけません。みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です。与える愛とは、すなわち、無償の愛です。あなたが与える愛は、本来、あなたのものではないのです。あなたの愛は、神から与えられた愛なのです。その愛を神にかえしてゆくために、私たちは、ほかの人びとを愛すべきなのです。
苦しみの原因は、自分はほかの人を愛しているのに、ほかの人は自分を愛してくれないと思っているところにあるのです。いえ、ほかの人が自分を愛してくれないのではありません。自分が期待しているほどには、ほかの人が自分を愛してくれないと思うからこそ、愛ということを機縁として、人間はひとつの苦悩におちいってゆくのです。愛のみかえりは、ほかの人間からではなく、神からくるのです。
神からくるみかえりとは、なんでしょう。それは、すなわち、愛を与えれば与えるほどに、あなた自身が神近き人間となってゆくということです。それが、神のみかえりなのです。
神の本質を見てごらんなさい。神は、燦々とふりそそぐ太陽の光のごとく、無所得のままに、無限の愛と慈悲を万物に与えているではありませんか。あなたたち、ひとりひとりの生命でさえも、神に対して、一文の支払いをすることなく与えられたエネルギーではありませんか。
さすればまず、与えることからはじめてごらんなさい。与えるとは、どうすればひとりでも多くの人びとがしあわせに生きられるかを考えながら、日々生きるということです。与えるとは、ひとりでも多くの迷える人びとの心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、ひとりでも多くの人びとを、困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。
知恵をもって、与えなさい。物質を与えることだけが、与えることではありません。慈悲魔になることだけが、与えることではないのです。
真に与えるとは、真に人を生かす道であり、真に人を生かすためには、知恵がなければならないのです。だからこそ、私たちは、知恵をもって、勇気をもって、与える人生、すなわち、無償の愛を人びとに与える人生を歩んでゆこうではありませんか。
愛に敵はありません。愛は無敵です。なぜならば、ほんとうの愛とは、与える愛であり、無償の愛であり、あらがうことを許さない無限の愛の力だからです。愛は大河です。無限の上流より、無限の下流へと流れゆく大河です。
そして、いかなる者も、この大河にさからうことはできないのです。すべてを与え、すべてを押し流してゆく力だからこそ、永遠に愛にあらがいつづける悪など、この世には存在しないのです。←「愛と悪が」ではなく、「永遠(という“モノ”)がこの世には存在しない」の、間違いではないか?と。
「シリウスから来た女」の続編part2
以下に第2回個人セッションの資料を紹介する、その前に。これから厳重に注意してほしい点を先に述べておく。
実際に宇宙に働く法則である「(霊的)真理」とは、私たちの地球で物質化している現象、及び物事の総体を成すモチーフでもある。要は、元は霊的組織であり、それが物質化して目に見える現実という世界観を作っている、という事。
それらは私が考えた“モノ”なんかでは全くなくて、古く先人が読み解いて来たように思える内容であり、それが日本語の奥義として随所に散りばめられているところをたくさん確認して来た。なので、当面は私の持論という形にはなってしまい恐縮だが、地球上で法則として観察して来た内容を論理的に認したためた“モノ”をブログ及びYouTubeにて発信していくつもりだ。
注意点として、真理の考え方は、学術界の流儀とほぼ同じで、引用元を偽ったり、他人の論をさも「自分の論だ」とすり変える行為は泥棒と同じで、自分自身の魂及びその背景等に処分等されかねない。なので、当ブログの内容を引用する際は、必ず引用元として「当ブログのアドレスを表示」したり、「私の名前を挙げて」ほしい。どういった処分か?については、「非=犯す」というところから推測してもらいたい。
例として、以前私の論を「俺(様)のパクリだ!!」と言って、散々付き纏われたことがあった。その人は自分自身の魂に付着していた重油の成分に、自分自身の言動により引火=着火して「火だるま」になっていた。私の方では嫌がらせをされていたが、それでも私に助けを求められ、奇しくも霊界の母には「なんとかしてあげなさい!!」と怒られ、仕方なく霊的処置を施した。
「真理」と言っても、私のそれには「霊的」という文字が付くだけあり、また役目が役目だけに、色んな霊たちが見張っていることを念頭に入れておいてもらいたい。ブロ友のともちゃんにも先に注意を促しているが、正直に引用元を晒してくれれば、何も問題は起こらないはずだ。
そして、当ブログの最大な利点としては、読者各人の魂に付着している(霊的)汚れを、文字面から浄化する作用は間違いなくあるはずだ。それはその個人の読み込む力にも掛かっているかもしれないが、なるべくならそうした使い方をしていただけると、私としても励みになるし有り難い。また、何か質問等があったなら、コメント欄に寄せていただけると幸いだ。
ということで、第2回個人セッションの資料を紹介する。
なんで「不幸が必要か?」の説明は、次回へ。R5/7/6㈭0:02 (日付を跨いてしまって申し訳ない)