シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

18.シリウスから来た女part.2「個が団になるには」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-25)[太陽の法:2愛の存在]…

 私たちは、愛について考える機会がたくさんあります。しかし、愛そのものを見たという人は、ひとりもおりません(←確証できるのは何故か?)。愛とは、それを手にとって見ることができないし、これが愛ですと取り出して、人に見せることもできないものだからです。

 しかし、愛は、確かに存在するものです。私は、愛の存在を信じております。

 愛の存在⎯⎯だれが見ても、これこそが愛だという確かなるもの、それを求めて、人間のあてどない永遠の旅ははじまるのです。

 だれもがその目で見たことがなく、だれもがその手で触れたことがない愛。愛とは、やはり幻であり、蜃気楼にしかすぎないのでしょうか。

 しかし、考えてもごらんなさい。人間は、どれだけ、目に見えず、手に触れることもできない存在を信じているか を。たとえば、風。私たちは、風そのものの存在を目で見て、確かめることができません。とはいえ、木の葉が舞いあがり、木々がざわめくとき、私たちは、風の存在を信じます。私たちの肌に触れるので、そのやさしさを、その冷たさを、その力強さを、知っています。これが「風」だと表現することはできます。ただし、その風をとらえて、箱のなかに入れて、そこから取り出して人に見せるわけにはいきません。

 愛とは、すなわち、風のようなものです。だれもがその存在を信じ、それをが存在するという感覚を共有しながらも、それを客観的に証明してみせるわけにはいかないのです。 私たちは、愛の存在を証明することはできません。しかし、愛の臨在を感じることはできるのです。これが愛だと取り出してみることはできなくても、そこに愛があるということを感じとることはできるのです。

 愛とは、なんと神によく似た存在でしょうか。神について、いままで、多くの人が語り、多くの人が信じてきたにもかかわらず、これが神ですという具合に、それを取り出して見せることは、だれにもできませんでした。かつて、たくさんの偉人たちが神について、宗教、哲学、詩、文学についてあれだけ語りながらも、だれひとりとして、神の存在証明を提示することはできませんでした。

 あのイエス・キリストでさえ、人びとに、神の姿を見せることができなかった。天なる父を、この方をごらんなさいと、人びとに示すことはできなかったのです。

「私のことばを聞く者は、私の天なる父のことばを聞く者である。父が、われに来て、いま、語っておられるからである。私の業を見る者は、私の天なる父の御業を見るに同じである。父が、私にこの業をなさしめているからである」←このの後ろの、改行した頭にブランク入れたのは変だよね↓編集ミスか?…行=業なだけに?)

 と、イエスは、いつも語っていました。つまり、イエスは、自分が語り、自分が行ったことを通して、神を感じとりなさいと、つねに、教えておられたのです。ですから、人びとは、彼の権威あることばを聞き、そこに神を感じ、彼に帰依したのです。

 人間にとって、いちばん重要なものは、かえって存在証明になじまないものが数多くあるのです。いつの時代においても、そうです。いつの時代でも、いちばん大切なものは、その存在を証明できないことのほうが多いのです。

 神⎯⎯愛⎯⎯勇気⎯⎯叡智⎯⎯善⎯⎯やさしさ⎯⎯美⎯⎯調和⎯⎯進歩⎯⎯慈悲⎯⎯真理⎯⎯真心⎯⎯無私。

 これらはすべて、宇宙に満ち満ちている実在であり、光の世界においては、これらのことばを知らない方ひとりもおりません。 しかし、この地上では、だれひとりとして、そうしたものが、確かなる存在だと証明することができないのです。なぜならば、これらの大切なものは、すべて四次元以降の実在界にある存在だからです。すなわち、三次元的材料をもってしては、証明することができないのです。

 現在、私が認識している神とは、二十次元(←これはひどい妄想)以上の超高次元の存在を意味します(←これがもし本当なら、この人は肉体が溶けてしまっていて、この世には「実在しない」はず)。ですから、その存在を三次元の基準で証明することは、不可能なのです(だからといって、「虚偽を言ってもバレない。故に全部OK」とはならない★)。だからこそ、「信仰」というものがあるのです(←確かに、こういう信仰心を煽って「俺を祭り上げろ!!」とふんぞりかえっているから、地獄に落ちるはずだわな★元信者コウちゃんさんも言ってたけど、やっぱり周り=側近の役目も相当罪深いわ★)。「信仰」ということばは、「信じて仰ぎ見る」という意味です。信じるとは、感じ取り、受け入れるということです(←まんまと嵌めおったね、多くの信者様を)。そして、仰ぎ見るとは、おおいなるものに敬意をはらい、自らをむなしくするということです(なんで?神に敬意を払って自分を「むなしく」させなきゃならんのよ?神と私たちは平等じゃないとでも言うつもりか? 「立場が違う」ってか?……それはあんたみたいな「信仰心」がそう思い込みたいだけの、個人的願望だろって★)

 イエスはいいました。「神は愛なり」と。愛とは、確かに神の属性のひとつでありますが、イエスはこのときに、それ以上のことを語っていたのだといえます。

「神は、その存在を証明しうるべきものではない。あえて、神に似ているものをあげよというならば、それは、愛である。愛は、その存在をなにびとも証明しえないではないか。なにびとも 証明しえないにもかかわらず、人びとは愛のすばらしさを知っているではないか。愛のよさを知っているではないか。そして、愛を手に入れんと努力し、その愛の力を信じているではないか。

 信仰とは、そうしたものである(←これは信じ込ませたい側の論理=詭弁。実際「信じる」なんて無駄だし必要ない。要は真理という道理が分かるか?分からないか?の違いだけで、自分と他人と神とは平等であり、且つ法則が働いているという筋道が分かる努力をする、それを人は「学び続けている」だけだ。いろんな罰に当たりながら軌道修正する事で)。愛の存在を信じる者は、神の存在を信じよ。愛の力を信ずる者は、神の力を信ぜよ。なぜならば、神は、愛だからである。見よ、神の子であるわれイエス・キリストは、愛の業をなすなり。 これ、われがなすにあらず、わが天なる父、わが神、われに来たりて、われにこの業をなさしめるなり。愛を見んとせば、まず、わがなす業を見よ。そこに愛があり、そこに神がある」

 右にあげたことばは、いまから二千年近いむかしに、イエス・キリストが、ナザレの地で語っていた愛の話の復元です。現在、イエスが私を指導しているように、当時は、私が天上界からイエスを指導していたからこそ、 私は彼のことばを知っているのです。(←これが本当なら、私とこいつはツインだぜ。超迷惑な話★)

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

(「個人セッションが必要」と、私が判断した理由から)

我々人間にとって必要不可欠な両者=「水分と油分」という成分は、実は感情的な“モノ”として、体内で流動的な平衡作用やその時々に変幻自在する“モノ”=「性質」としても扱っており、その状態で「慣らされている」のだった。】のつづきから

 水分及び油分は、外的な温度によってその姿を変える。そして「一定範囲内の温度」が保たれれば、流動体や固体、または気体として在り続ける性質を持っている。しかし両者の量的な平衡(=バランス)状態等の条件が崩れた場合、どんな予想が付くだろうか。

 この切っても切れない関係性を持つ両者、水分と油分の性質=「性分のバランス」が、各個人の「性格的な面」として現れているとしたら……それが、個人の内なる精神面に与えている影響は……計り知れない何か=“モノ”がありそうな気がして来ないだろうか??

 ということで、長々記して来てしまったが、私が「個人セッションが必要な理由」として思い描いていたイメージでは、この水と油の関係を、各個人の内面的作用として観察する必要があると感じていたからだ。そして、この両者の関係が与える「個人の考え方」の傾向とその分析や解析も重要と考えた。

 こうして先ず、各々の「個人的傾向を知る」ことが、結果「大きな集団になる要素」を知り得る=分かる秘訣のような、そのような心理的作用の傾向を知ることに繋がっていくと考えていた。……その結果は……これから徐々に吐露していく。R5/7/2㈰23:49