以下引用【 】内が「太陽の法」からの原文、(赤字)が私の解説等です。
[(3-16⑵)[太陽の法:3神の化身]…
前項で、光の天使たちは、胸にパワトロンという装置をつけていると述べました。そこで、光の天使とは、一体なんなのかということを中心に、お話ししたいと思います。
天使といえば、キリスト教的であるし、一方、菩薩というと、とても仏教的な響きがあります。しかし、キリスト教の大天使は、仏教でいう如来と同じであるし、天使ということばは、菩薩や諸天善神をふくんでいるのです。
すでに述べたことですが、本来、キリスト教も、仏教も、神の教えであることにかわりはないのです。ただ、教祖の個性によって、光の色がちがっているだけなのですから、高級神霊たちを、光の天使といっても、光の大指導霊といっても、その意味にかわりはありません。つまり、彼らは、一般の魂、普通の人びとから見たならば、神の化身ともいうべき存在だということです。
では、なぜこのように、神の化身というべき高級神霊が存在するのでしょうか。神が 人間を平等に創造したというならば、こうした高級神霊が存在すること自体、すでに、人格に差別をもうけているのではないでしょうか。平凡な人間はあくまでも平凡に、高級な人間はあくまでも高級に、同じ人間として、それぞれ生きたらよいのではないでしょうか。
一方に高級霊がおりながら、他方に低級霊がなぜいるのかという問いに対しては、神の世界観は、「平等」と「公平」という二つの観点からなりたっているということから答えていかなくてはなりません。
すべての人間、すべての動物、すべての植物、すべての鉱物に仏性が宿っているという事実、たとえ現象としてはどのようにあらわれていようとも、万象万物は、すべて神の意志の発露であるという事実、これは、動かしがたい神理なのです。
ことばをかえていうならば、生きとし生けるもの、万象万物はすべて、神の叡智という名のダイヤモンドでできているということです。 人間を人間としてあらしめるため、植物を植物としてあらしめるため、神はさまざまにダイヤモンドを散りばめ、イキイキとした造形の美をかもし出しております。そして、どの人間をとってみても、どの動物をとってみても、どの植物をとってみても、そのすべては、叡智という名の神のダイヤモンドでできている。それが、真実なのです。
これが、仏教でいう万物に宿る仏性であり、キリスト教にいう人間神の子の思想なのです。したがって、高級霊であれ、低級霊であれ、神の生命を体現しているということに関しては、すべて平等なのです。平等でないというのは、「高級」「低級」ということばの響きに迷わされているにすぎません。
要は、高度に進化した霊と、進化途中の霊、そして未発達の霊があるだけなのです。すべて同じ道筋を歩いている者なのですが、つまりは、先を歩いている者と、後方を歩いている者とのちがいがあるということなのです。
高度に進化した光の指導霊というのは、 魂としてつくられたのが古いために、先を歩いているのです。一方、未発達の霊というのは、そのほとんどの場合、魂がつくられたのが新しい。新しいがゆえに、後方を歩いているだけなのです。はたして、これを不平等だといえるでしょうか。自らの歩いたぶんを、その距離を距離として評価すること自体が不平等といえるでしょうか。
それは、平等、不平等ではなく、公平の観点から評価されるべきことなのです。たとえ古い魂であったとしても、必ずしも、道をどんどん進んで行っているとはかぎりません。道をひきかえしてくる人がいるからです。たとえば、元天使だったにもかかわらず、地獄の悪魔になったりしている者は、かなりの道のりを進んでいた者が、なにを考えちがいしたか、道を途中から逆もどりした場合です。こうした霊は、未発達霊というよりは、むしろ退化霊だというべきでしょう。
神は、すべての霊に、神に向かっての一本の道を進ませているという点に関しては平等をまもっておられます。また、すべての霊が神に向かって進んだだけの距離でもって評価されるという点で公平をまもっておられるのです。
ですから、神の化身といわれる高級霊は、それだけの実績と役割を与えられているということであり、すべての霊は、また、そうした高級霊に近づいていくために、永遠の修行をしているということなのです。
↑ 今回は概ね間違ってはいないと読める内容になっていた。
なので……かどうかは分からないが、今日は後ろの方まで頁をぺらぺらめくってみると、彼大川氏「本来の姿」と思える素性が書いてあった。
そこには、田舎から出て来た「純朴青年」である、私が描写していた「彼らしい」イメージ通りの紹介文と、葛藤及び使命や決意の表れのような内容が記してあった。
して、その発端を作った人物の名前が。その名を私が書店等で見掛けた際、絶対触れない、近寄らないようにしていた「名」だった。
本日それを知った私は……もう「大川隆法」という人物に対して、哀れとしか思えなくなった。今日まで私は、どうしても彼が悪い人物とは全く思えなくて……これまで記して来た通り、私のできる限りでどうにかしてあげられたら……その一心で、今まで信者さんたちのお気持ちを蔑ろにしているのは明白で、大変申し訳ないと心の中ではお詫びしながらも、なんとか地獄の激流から救いあげたいと、彼の非の部分に焦点を当て、焼き尽くそうと果敢に攻めて続けていた。
彼大川氏は、私の読み通り「何者かの傀儡」となっていたわけだが、それが相当悪質な、書店の著作物からも異臭が放たれていた悪霊憑きに憑かれていたとは……。その第6章「最後までねばりぬけ」、「獅子のごとく吼えよ」で記してあったが、こういう純粋少年のような心の人物は魔の格好の獲物だ。これについては追々……。
「シリウスから来た女」の続編part2
【(「個人セッションが必要」と、私が判断した理由から)
この講話会の前身、地元の地区センターで講話会をしていた頃にも「ヒーリング」他、エネルギーワークをしていた私は、一応は能力?なる“モノ”を見せて、来る時期に嘘つきじゃない実力?行使もご披露していた。】からのつづき
まぐまぐ「シリウスから来た女」でご紹介済みだが、私は娘に気を入れたいとの思いから「気の会」に通っていた。そこでは等身大で働く天使の姿をたくさん見かけるようになった。
そして会場で7、8名ほどのグループに分かれて、一人が横になり、その寝ている体の差し障りのない部位に、他の人たちがヒーリングをする、というエネルギーワークをやっていた時だった。私の掌から出ている気エネルギーから、天使の羽が出るのだ。他のグループに入れ替わっていっても、私のエネルギーだけは、「天使の羽が生える」のだった。
それが見えていた気の会の先生は、私の名前までは挙げないが、「前世で私の弟子がいる。その人は天使のエネルギーの使い手だ」と仰られた。……多分、気が付いた人も中には居たかもしれない。
途中からだったが、会場でオールフェアー(これもエネルギー・ワークの一つ)をお配りした後、来場者全員でお互いの背中に掌を当てながら輪にな李、エネルギーを送り合うというヒーリングをした後、その「天使の羽を生やすエネルギー」を、ご来場者お一人おひとりにお入れする、それもサービスの一環としていた。 R5/6/20㈫23:11