シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

22.シリウスから来た女part.2「『不幸』を味わう」についての考察

昨日(R5/7/5㈬14:12)の手帳メモより。

【大川の文字起こし中。睡魔に(襲われ)目を瞑ると、鳥のヒナのような、浅黒い皮膚の赤ん坊=胎児のような人間が、真っ暗な激流の中の岩場(←なんだかわからんけど、見つけたか?ぶつかって上がったか?)に、ずぶ濡れになりながら這い上がった所が見えた。体力は使い果たしているように見え、ゼエゼエゼエゼエ(肩で息)しているが、目をひんむいて、何か荒々しい表情をしている。】

↑ 以前紹介した後に見ていた「地獄の激流の中に埋没しながら、呆然としていた姿」のその後を見せられたようだ。この後、どうなるのか?も見届けさせられる気がする。一応、ご報告まで。

 

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-29)[太陽の法:6愛の発展段階説]…

 愛について、いろいろと語ってきました。そして、真の愛とは、与える愛であり、無償の愛である(←ここは同意)とも説きました。つぎに、どうやら私は、愛には発展段階があるという真実の教えに触れざるをえなくなってきました。

 そうです、愛にも発展段階がある(←ここも同意)のです。しかし、地上の人で、この発展段階に気づいている人は多くはないはずです。

 愛の発展段階の第一段階として、まず、「愛する愛」があります。この愛する愛は、ある意味では、もっとも愛らしい愛だといえます。すなわち、それは親の子に対する愛であり、子の親に対する愛であり、男の女に対する愛であり、 女の男に対する愛であり、友人に対する愛であり、さらには、隣人に対する愛です。もっとひろくいえば、社会に対する愛、共同体に対する愛も、この「愛する愛」にふくまれます。

 愛するといっても、やはり、与える愛であることにはかわりはありません。つまり、愛する愛の基礎にあるのは、その人が当然関心をもってしかるべきものに対する愛だからです。その人が関心をもってしかるべきものに対して好意を与えるということが、愛する愛なのです。これは、もっとも根本的、かつ、一般的でありながら、実際には、けっこう困難な愛だといえます。

 地上世界が、この愛する愛に満たされたならば、少なくともこの世は、はっきりとした天国となるでしょう(←この世が地獄だから修行に成る。しかし、この世を天国と思うことはそれぞれの勝手)。愛する愛とは、すべての人に期待できる愛であり、すべての人が、 愛する愛のすばらしさを生来的に理解することができます。つまり、人間は生まれつき、愛を与えることに関して、幸福感を感じるようにできているからです。(←これについては根拠を示してもらいたい)しかし、問題は、愛する愛をつねに理解するだけでなく、それをいかに実践するかです(←同意)。この愛する愛が真に実践されれば、地上は三次元でありながらも、そのまま実在界の五次元霊界(善人界)へと変貌するはずです(←どうして【実在界の五次元霊界(善人界)】となるのか?についても、教祖と名乗るのならば、その根拠を示してもらいたい。でないと、ただの鵜呑みさせる行為は、師がやると強制になる。それにより、各自が自尊心等を植え付けられたにせよ、きちんと説明できる根拠もなく、「信仰していること」を威張らせたいだけの世俗的宗教に成り下がる。そして、何のために「その宗教を信じられる」ようになったのか?という、その根拠を各人がきちんと示せなければ、ただ「教義」として教えても「狼の遠吠え」にしか聞こえない★)。つまり、この愛する愛の実現が、地上天国への第一歩なのです(←まただ。その根拠を示してくれ。自分が信じる?唱えた?教義を、信者にただ鵜呑みにさせるだけでは、教祖としては失格だろう)

 愛の発展段階の第二段階には、「生かす愛」があります。「愛する愛」は、だれにでも可能な愛であり、その実践だけが問題なのですが、この「生かす愛」はだれでも実践できる愛ではありません。なぜならば、人を生かすことのできる人とは、すぐれた人であり、自らの才能と努力とによって、人を導けるまでに自分というものをしっかりとつくっていなければ、真に人を生かすことはできないからです(すぐれた人←例えばそれはどんな人物像なのか?……これを言葉にして示すことはとても大事なこと。示された「それ」が、「その人=大川隆法」という人物の為人を他者が見るための、判断材料になるのだから。こういう一つ一つを丁寧に論じない、論じられない辺りが、胡散臭い&誤魔化しと感じられてしまう)

 つまり、生かす愛とは、すなわち、導く愛なのです。ですから、その愛の実践の前提として、まず、優秀な人格を築いておかねばなりません。なぜならば、優秀な人格を築き得ない人間が他の未完成な人間を手引きすることができないからです(←またまた、二度同じことを言うだけでは、根拠にはならない。聞いていて恥ずかしくなる日本語の使い方だ。この人、自分が東大出たからって、優秀だって思っているんじゃなかろうね。学歴では人格は測れない)

 川の水が上流から下流に流れてゆくように、この生かす愛もまた、上流から下流に流れてゆく愛だといえます(←自身の現状報告か)。生かす愛とは、知性の愛であり、理性の愛なのです。ですから、高き知性によって、人間と社会の本質を見抜き、すぐれた理性によって、その問題解決のメスをふるうことのできる人でなければ、真に人を導くことはできないのです。真に人を生かすことはできないのです(←同上)

 この意味において、「生かす愛」とは、実在界の六次元神界の愛だということができます。生かす愛を実践できる地上の指導者も、もちろんおります。しかし、その心は、すでに聖天上界の六次元神界に通じているということです(←その次元世界の説明もなく、急に出したね)

 関心をもって、しかるべき人に好意を与える「愛する愛」。そして、すぐれた自分をつくって、人を導く、「生かす愛」。それぞれにすばらしい愛です。とはいえ、生かす愛だけではまだ不十分だといえます。なぜならば、単に人を生かすだけであるならば、才能の才があれば、あるいは、他人をうわまわる知性があれば可能だからです。しかし、愛には、才能や知性や、努力を超えた愛があるのです。すなわち、それこそが、第三段階の愛、「許す愛」なのです。

 「許す愛」の実践者は、おおいなる宗教的境地への飛躍を経験しているはずです。つまり、この許す愛とは、「汝の敵を愛する」の境地だからです。これは、おおいなる度量と雅量をもってはじめて、才能を超えた徳をもってはじめて、出現する境地だといえます(←そんな大袈裟な問題でもなく、これは非常に厳しい修行だ。例:最愛の子供の命を誰かに奪われた保護者の心境等、本当に様々なパターンが修行として用意されている)

 人間をすべて神仏の子として、神の分身と見ることができる人にこそ、敵と見えし者を愛し、許すことができるのです。すなわち、この許す愛の境地は、菩薩の境地なのです。ですから、この許す愛の実践者は、七次元からの使者であり、その心は実在界の菩薩界に通じているのです。←なんだか「偉そーな役目」に当て嵌めるの、好きだね、この人。そんなに偉いかね?、菩薩とか如来とか。

 しかしまだ、この「許す愛」の段階では、悪を悪と見、敵を敵と見る気持ちが残っているといえます。つまり、善悪の二元論にとらわれ、悪なれども許す、敵なれども愛するという気持ちには、まだ、神の気持ちに遠いものがあるからです。真の真なる愛は、善悪の二元を超えたものであるべきなのです。敵を敵として許しているようでは、また、自ら一段高しとして、許しの玉座に登りて、他人を許しているようでは、まだ真の悟りは得ていないといえます。←善悪だけでなく、「二元論」に囚われているのは、文字を使う人類全体的に言えること。

 ここに、菩薩の境地と如来の境地の差があります。つまり、菩薩の境地には、まだ善悪の二元論にとらわれ、悪を排し、善をつかみ取るという姿勢、精進の姿があるようです。そこで、私は、さらにこれ以上の愛の境地があることを語ってゆきたいと思います。←必要悪は、裏を返せば「善人」じゃないのか??

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

なんで「不幸が必要か?」の説明は、次回へ。】のつづきから

 資料を見て貰えばわかるか?わからないだろうが、この世は「地球:ちきゅう」という天体から出来ている。

 この地球という天体で、人間は「酸素」という猛毒を吸わないと生きられない。それがそもそもの「苦しみ」だ。奇しくも前々回記事での大川氏の例え話で登場した三番目の鳥の有り難い“モノ”が空気だった。水も必要不可欠だが、人にもよるが、大抵一日くらい飲まないでも死なない。太陽も然り。だが、空気は少しの間だけでも吸わなければ死ぬ。その吸えない状態を「苦しい」と言わない人は、この世には居ないのではないか?と。

 なので一寸先は闇どころか、ちょっと先でも息を吸わないと、吐かないと、「苦しみ」を味わっているのだ。なので、私たちは果たして「空気がない」地球以外に住めるのだろうか。(←今はどうでも良いか★)

 しかし空気が存分に有って、ちゃんと息が吸える環境では、誰しも「苦しみ」を味わいたいとは思わないだろう。否、そんなことすら考えないか。実はそれが大前提としての条件であり、「苦しみ」から逃れようとするのは「欲望」というより「本能」に近い。「本能」というのは、行動に際し「いちいち考えない」ことを指している。

 さて、「不幸」について考える。

スーパー大辞林辞書より:

幸い 

自分にとって望ましく感じられる精神的状態。しあわせ。幸福。

ある状態が,あることをするのに都合がよいさま。
【不

(接頭名詞に付いて,それを打ち消し,否定する意を表す。

「…でない」「…しない」の意を添える。

「…が悪い」「…がよくない」の意を添える。

(漢字)打ち消しの意を表す。

上記より、自分にとって不都合なことが「不幸」という意味らしい。

 ということで、他人にとって好都合な事「幸せ」が、自分にとっての「不幸」と考える人もいれば、「(あくまでも自分から見ての)他人が幸せそうに見える」というだけで、自分を「不幸」と考える人もいるだろう。……そんなにしょっ中「幸せ〜」などと考えている人もそうそう居ないと思われるが、あくまでも「主観」なので、自分自身を「不幸」と見ている人も多々いるだろう。

 なので、敢えての「『不幸』な状態である自分も有りだよ」と考えるだけでも、その時の自分を許せるようになるのではないか?という思いから付けたタイトルであり、内容だった。R5/7/6㈭23:54