シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

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34.シリウスから来た女part.2「彼岸は中庸から」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-38)[太陽の法:5観自在]…

 如心というのは、霊道をひらいた菩薩の心境だといってもいいでしょう。あるいは、如心とは、如来界の人の悟りだともいえます。如心にも、やはり段階があるのですが、通常、阿羅漢の上の如心というと、菩薩の境地を意味します。これは、なにも地上界で悟りをひらいた方のことばかりではありません。あの世、すなわち、実在界でも、同じようなことがいえます。←まず「如心」の意味から説明してほしい。分かったフリをしているのか?分かったつもりで「誰かから質問が出ないか?」を待っているのか、はたまた「師匠の論の邪魔をしちゃいけないから」と、本来きちんと質問して意味を正すべきところを、その態度を無碍にしてまで、ただ「ありがたがるだけ」で終わらせてしまっているのか……な「信者」様方だったとしたら??……私にもこのような「信者ぶって来る来場者」に、身に覚えがあるが……いくら宗教で教義を学んだとしても、このような人たちは、逆に依存心や依頼心の強さから「救われない」。「如心」に対して誰か、突き止めた人はいなかったのだろうか。辞書にはなかったその熟語もコトバンクにはあったので、一応ご紹介。

中日辞典 第3版の解説 如心 [動]思いどおりになる.事事都不~/すべて思いどおりにはならない.

 ただし、あの世の霊だから、なにもかもがわかるのかといえば、決してそうではありません。やはり、その霊の認識の高さ、悟りの高さによって、理解できたり、把握できたりする範囲は異なってきます。その典型的な例は、「予知」です。四次元以降の実在界の霊たちは、程度の差こそあれ、だれもが、将来起きること、つまり、未来の事件に関して、ある程度予知することができます。ただし、それが地上の三次元の人間に対してなされると、往々にして問題となります。というのは、時間的に、あるいは、場所的にズレることがあるからです。←この解説は一見正当と考えられるが、自身の勘が外れた時の予防策(=保険)と言える。予知能力を発揮したい&ひけらかしたい等の、それらしく振る舞いたいだけの邪霊の魂胆は、誰かしら自分の罠に引っ掛かってくれそうな人間の気を引き、「信望者」となるようにし向け、その人物がくれる豊潤?濃厚?なエネルギーを吸い取りたいだけだ。実際それ=予知をしてどんな得が得られるというのか?……災害のようなあらかた下準備が必要な事案でなければ、予知する必要もないだろう。たとえ予知的能力があったとして、現時点で「準備だけはしっかりしておけ!!」というサインであり、それに対してたかを括ったり、予知が当たった!!と自慢する目的だけでは、霊格及び個人的な徳を下げるばかりだ。

 もう少しくわしく説明すると、その理由は二点あります。第一点は、将来起きることにも、確定的事件と流動的事件があるからです。確定的事件とは、高級霊界において、決定ずみのことで、これは、よほどのことがないかぎりくつがえすことが不可能です。しかし、流動的事件とは、このままでいけばこうなるであろうという予測的な段階にしかすぎません。ですから、これは、地上人の努力や、守護・指導霊たちの努力によって変更することが可能です。つまりは、天上界の霊の予言もはずれることがあるということになります。←同上(=保険)。

 第二の理由は、天上界の諸霊の意識の段階差と、得意・不得意の分野によって、予言の精確さに、程度の差が出てくるからです。一般的にいえば、霊格が高ければ高いほど、予知がよくあたる(←必然で起きる事象に対して、「当たる」という表現は失礼千番★)のはもちろんです。予知を専門の職業としている霊もいるほどで、やはり専門家のほうがあたる確率が高いといえます。←「占い」のつもりか?

 さて、ここで、如心の段階の上にある、観自在という悟りの境地について説明しましょう。↓以下は理解無用だし、解説するだけめんどくさいので省く。

 般若心経というお経の最初に、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」という文句があります。これをそのまま訳せば、「観自在菩薩の修行の境地がたいへん深まり、内の潜在意識の宝庫をおひらきになったときに」という意味です。観自在菩薩とは、人の名前ではありません。修行が進んで、観自在となった菩薩の境地のことを意味します。

 菩薩とは、一応、自分づくりという「小乗」の段階を通して、「大乗」、すなわち、衆生済度に立ちあがり、人びとを救おうという気持ちになっている魂の段階です。とはいえ、この菩薩の境地にいたってもまだ、人間的な悩み、苦しみがあり、いつもいつも神霊能力を発揮できるような状態ではありません。しかし、菩薩の心境が進み、菩薩界上々段階の悟り、すなわち、梵天の境地になってくると、少々の病気や事件、人間関係のできごとにおかまいなく、安定した神通力を発揮することができるようになってきます。つまり、観自在菩薩とは、梵天の境地であり、実在界では、菩薩界と如来界の中間、七次元とも八次元ともいえる霊域に達した魂のことをいうのです。

 観自在菩薩は、インドの釈迦の時代には、アポロキシティー・シュバーラーと呼ばれておりました。まだ十分とはいえなくても、六大神通力を全部そなえるにいたった段階です。六大神通力とは、天眼、天耳、他心、宿命、神足、漏尽の六つです。ここで、そのそれぞれについて説明しましょう。

 天眼とは、いわゆる霊視能力のことです。生きている人間のオーラや憑依霊はもちろんのこと、あの世の世界、実在界までを透視する力があります。

 天耳とは、あの世の霊たちの声を聞くことができる能力です。霊言能力のなども、これにあたります。

 他心とは、いわゆる読心のことで、マインド・リーディング、つまり、人の気持ちが手にとるように理解できる能力です。

 宿命とは、単に自分の将来がわかるだけでなく、その人の想念帯を読みとれば、他人の運命、宿命が手にとるようにわかる能力です。もちろん、過去世のことまでわかってしまいます。

 神足とは、いわゆる幽体離脱のことで、肉体を地上においたまま、霊界を見聞したり、テレポーテーションしたりする能力のことです。

 漏尽とは、「己の欲する所に従いて則をこえず」と喝破した孔子の境地で、高度の神霊能力をもちながらも、通常人とまったくかわらない生活をする能力です。すなわち、山にかくれたる小聖の境地ではなく、街に住む大聖の境地です。

 観自在菩薩とは、以上あげたこの六大神通力がなんらかの形で身についてきた状態の人のことです。 同時に多人数の心を読んだり、遠隔地の人の心が手にとるようにわかる「如心」よりも、一段と高い心境だといえます。

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

31.今だから説ける「真実を伝える言葉」に置換・変換させてみる。】のつづきから

第四回資料より引用( : 第二センテンス以降、一行毎にナンバリングあり)

*釈迦は、「①極端にかたよった修行では、真理に行きつくことは出来ない。②その中ほどを貫く中道を歩むことが大切だ。」「③実際に彼岸へ渡らなくても、彼岸から此岸を見ることが出来る智慧を身につければよい」と説きました。

 「太陽の法」でも上記と同様な解釈が載せてあった。が、私は自分の役目として、「『真理』を私自身がこの世で腑に落とした『日本語』にして説明する事」を自認している。それにしても、その道は険しく、遠く、そして難攻不落な要塞に見える。

 さて、①について。「極端にかたよった修行」とは、学問や一般常識、世間の道理、宗教や会社組織等々の、あらゆる物事に通じていると思える。②は「中庸」の事だ。そして③は、死後でなくとも「生きている状態」で「彼岸の智慧を身につける」と、この世が天国のように安らかに過ごせるよ、という意味だ。 R5/7/18㈫23:05