シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

53.シリウスから来た女part.2「遠心力と求心力」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-56)[太陽の法:3熱鉄のごとく赤く燃えよ]…

 執着を断つことは、人生における一大決意だといえます。つまり、永遠の人生において、幸福を保証する英断であります。しかし、このことは、人生を消極的に生きよ、うしろ向きに生きよという意味では、決してありません。執着を断つからこそ、積極果敢な人生がひらけてくるのです。

 世の人びとをよくご見てごらんなさい。執着のある人びとの、なんと弱々しいことでしょう。なぜ、自分の地位や名誉、あるいは、他人とくらべた年収などに執着をするするのでしょうか。なぜ、学校の名前や会社の名前に執着するのでしょうか。なぜ、見栄や虚栄に執着をするのでしょうか。そんなものに執着して、一体なにになるというのでしょう。この世の人びとに評価されてところで、一体それがなにになるのでしょう。はるか彼方の、大宇宙のはてよりも、さらに偉大な神の存在から見たならば、人間の執着など、いかにはかなく、いかにむなしく、いかにとるにたりないか。そのことが、わかりますか。

 すべてのこの世的な執着を断って、熱鉄火のごとく赤く、熱く燃えてこそ、真実の人生なのです。それでこそ、神の子としての人生なのです。それでこそ、神に認められる人生だといえる(←結局、この人も「誰かに認められたい」執着があるのではないか?と。ここでのあらかたは、私もほとんど納得し自覚することもできるが、ミイラ取りがミイラになる典型が、このような「自分のことは棚上げしてしまう癖」にあると実感する。特にこの人の今は「地獄に居る」ので、私自身はこの彼の状態を布石としたい←もしかして、それが上から私を見張っている者達の狙いだったのではないか?と★ギョッとする★☆彡)のではないでしょうか。

 人間がこの世で築いた地位も、名誉も、財産も、死んであの世にもって還ることはできないのです。この世の肩書きなど、あの世では、もちろんのこと通用しません。日本の総理大臣といわれた方たちが、一体何人、あの世の地獄で苦しんでいるか、あなたは知っていますか。人もうらやむような大会社の社長が、何百人、何千人と、色情地獄、阿修羅地獄、あるいは、畜生道に堕ちているのです。そのことを、あなた方は知っていますか。生きていたときに、金もうけばかりうまくて、何人もの女性との快楽をむさぼった人間が、快楽のうちに人生をおえた人間が、そのわずか数十年の快楽のために、一体何百年、苦しみという名の代償を支払いつづけているか、あなた方は知っていますか。地獄は、むかし話や方便ではなくて、実際にあるのです。厳然としてあるのです。

 神理を体得した人の目から見れば、あの世で苦しんでいる人びとの姿は、金魚鉢のなかの金魚を見る人よりもたやすく見えてしまいます。そして、そういう彼らに共通するのは、この世に執着の多い人ほど、苦しみもまた深いということです。

 人間は、心です。魂です。ですから、死んであの世にもって還れるものは、あなた方自分自身の心以外にはないのです。心がすべてなのです。死んであの世にもって還れるものは「心」」しかないのだと気づいてはじめて、人間はひらきなおることができるのです。

 心しかもって還れないならば、せめて美しい心をもって還るしかないでしょう。では、美しい心とはどういうものでしょうか。もちろん、神さまがほめてくれるような心です(←ね?上記のツッコミと同レベルな“事”を、ここでまたもツッコマざるを得ない。誰かに褒めて&認めて「もらう事」←これも十分「執着心」からだから★本当に「心」の基礎固めができていない証拠が、まさにこれ。自業自得もこういうことだ。他人に厳しく言えば、結果「己に返る」。またしても奇しくも前回52.記事で、以下「つづき」として取り上げたが、これも有り難く「布石」とさせていただく)。神さまがほめてくれる心とは、愛に満ちた心です。与える心、生かす心、許す心、感謝する心です。ですから、そういう心をもって還れるように、心を磨き(←また「出た」)、心を高める(←「心」は高められる“モノ”ではない。本来どこにでも在る“モノ”が「心」だ。「(清)浄化」はできる)ことにこそ、熱鉄のごとく赤く燃えあがるべきなのではないでしょうか。

 執着の反対は、なんだと思いますか。それは、愛です。なぜならば、愛とは、与えることだからです。他人を生かすために、与えつづける愛のなかに、一体なんの執着があるというのでしょうか。←これこそ「エゴ」なのに「愛だ!!」と勘違いして接している、特に親密な関係に多い。が、エゴと愛の違いを感覚的な言葉で表現することは非常に難しい。なぜなら、どちらも「愛だ!!」と言い張り、言い切ってしまうから。

……小学生の頃はいつも「愛が何より大事だ!!」と思っていたが、そんな事より愛から発した行動であれば、あとで「自分自身が後悔しないで済む」と、その方が得策だと、だんだん身に沁みて分かって来たので、今では結果的に誰に何を言われても平気になった。

 ですから、執着を断つには、まず、愛を与えることからはじめることです。あなたは、お世話になったご両親に、なにをしてあげましたか。兄弟に、なにをしてあげましたか。また、お世話になった先生の期待に、こたえることができましたか。友人になにをしましたか。縁あって人生の途上で出会った人びとに対して、一体なにをしてあげましたか。隣人に、なにをしてあげましたか。恋人に、なにをしてあげましたか。妻や夫に、なにをしてあげましたか。あるいは、子供を育てるときに、自分のご両親の苦労をどれだけ思い出しましたか。心のなかでにくんでいた人を許してあげられましたか。怒っていた心をしずめてあげましたか。神の愛に、どれだけこたえながら、勇ましく人生を歩みましたか。

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

騙される事も厭わない自分がいた。(中略)それまでの私の経験値では、目の前の他人の言動・行動には、そうした「見(=その身)返りする結果しか“見た事”がなかった」からだ。何故なら……それが「円(=互縁)の法則」だから。】のつづきから

 誰しも「自分が蒔いた種は、自身で刈り取らなければならない」←これが「円(=互縁)の法則」だ。視野を大きく取ってみれば、遠心力【辞書より:円運動する座標系に現れるみかけの力(慣性力)で,回転の中心から遠ざかる向きに働く。向心力と大きさは同じで向きが反対になる。このため,円運動をしている物体は,同じ回転座標上の観測者には静止して見える。向心力求心力 もその一つ。周囲に居る人間を、自分の力(=意思や意志:求心力)で振り回せば、やがて自ずと自分自身に返って来る。それが原因と結果に観る因果応報だ。見えない世界の法則とは、絶えずそんな感じでやって来る。

 金銭的にも時間的にも余裕が無い「貧乏暇なし」なのは、考える(=意思や意志)時間ももったいないほど、金を稼ぐために常に体を動かしながら、体力や実力を付けていく。そうして、他者を巻き込むための自分発の「求心力」を身につけるまでは、遠心力による自分が何“モノ”かの力によって始終振り回され続けるのだ。

 その逆に「金持ち喧嘩せず」とは、財があれば財力で解決でき、無駄に労力を使わずに済むからだろう。

 私は当初から住宅ローン“地獄”にハマっていたので、前者「貧乏暇なし」だった。故に自分以外の他者からは始終「振り回されっぱなし」だった。しかしそのお陰様で、色んな経験値を積む事ができた。……今は、振り回すことも振り回されることもほとんどなくなった。実際それは「奈落の『底(=安寧化)』に着いた」からだと思う。 つづく R5/8/6㈰23:41