以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)
[(3-59⑹)[太陽の法:6ダイヤモンドの時間]…
人生を力強く生きるためには、有限な時間を正しく使うことが必要となります。人間の魂が地上に生まれかわってくるのは、何百年に一回、あるいは、何千年に一回です。つまり、それほど貴重な体験なのです。それにもかかわらず、大多数の人びとは、人生の意味を深く追求することもなく、無為の時間を過ごしてゆく。もったいないことです。
晩年になってから、神の存在に気づき、信仰心に目覚めて、やりなおしをしたいと思っても、過ぎ去った 人生の時間は、矢のごとく、ゆく川の流れのごとくであり、もはや取りかえしがききません。
ですから、人生の早い時期に、神理に目覚めた人はしあわせです。そして一生を神理にしたがって生きることができれば、最高だといえます。もちろん、おそく神理に出会ったからといって、それで、なにもかもがだめになるわけではありません。おそく目覚めた人は、それなりの覚悟をもって、密度濃く生きれば、それはそれで、すばらしい人生となっていくでしょう。
人生には、ひとつの秘訣があります。それは、自分が死ぬときのことを瞑想してみるということです。自分が死ぬとき、なにを考え、なにを感じるだろうかということを、つねづね瞑想してみることです。そのときに、「ああ、生きていてよかった」「人生ってほんとうにすばらしいな」と思える人は、幸福な人生を生きた人だといえます。
その反対に、自分が死ぬときのことを考えると、後悔ばかりが、つぎからつぎへとわいてくる人たちもおります。気の毒な人です。こういう人たちは、死んであの世に還れば、高級霊の面前で、自分の一生を反省させられるのです。 テレビでも見ているようにそれはそれはあざやかに、自分の人生がそこに映し出されて、大勢の人びとの目の前で、それを見せられます。
死んであの世に還ったばかりの人は、神の目から見たら、自分が、一体どういう人間であるのかということを、はっきりと知らされるのです。このときは、なにひとつ、うそも、いいわけもききません。そして、たくさんの人びとに視線を感じて、自分の行くべきところを悟るのです。地獄へ行く人は、自らが選んで地獄へ堕ちてゆきます。というのは、 自分がどういう人間かがわかってしまったら、恥ずかしくて、天国には住めないからです(←嘘。まず天国に逝くには、地球の重力を外す必要があるし、その前に、羽が生えていなければ「天=空」へ向かっては飛べない。だいたい天国に逝くことができる人間は、それさえ自由意思だ。そして自分がどう生きるか?ということより、他人の幸せを第一に考えて行動しているから、自分自身に掛かる重力は半端なく小さい。こんな原理は、発想が天使等で無ければ実感できない★大川隆法にはそういう原理=霊的真理が理解できていない。それはこれまでの言葉遣いの端々から如実に剥き出していてバレている。本人は相当に自分自身の論に酔っ払っているようだから、他人に、否信者に対し「正しい」を教えることも無理だったようだ)。物理学的にいうならば、霊的な波長が粗雑で、ほかの人びとの精妙な波長にあわないということです。あるいはまた、意識体(←これは「邪念化」)が、三次元的な、物質的なものになってしまい、その比重が重くて、下へ沈んでしまうということでもあります(←天国の逝き方は知らないらしいが、地獄への赴き方は知っていたらしい)。
しかし、死去したあと、実在界で、自分の人生模様を見せられて、ほかの人たちから拍手を送られる方もいます。すなわち、その人が、自分の人生のまちがいに気づき、神に両手をあわせて許しを乞い、その両眼から涙が流れている映像が映るとき、あの世の人びとは、拍手喝采し、新米の霊人の肩をたたき、握手を求めるのです。また、その人が、神理の伝道のために一命をなげ出し、立ちあがった姿が映ると、光の天使たちは、涙を流してよろこびます。
これは、何年、あるいは、何十年先かわかりませんが、あなた方を待ち受けている光景なのです。そのときが、確実にやってくるのです。だからこそ、私たちは、つねづね、自分たちが死ぬときのことを、いや、むしろ、たとえ明日命がなくなってもいいような人生を生きているかどうかを、自問しながら生きるということが大切なのです。
死ぬときに、いまのような生き方であなたは、恥ずかしくはありませんか。悔いは残りませんか。自分の良心に照らしてみて、どうでしょうか。
人生の時間をダイヤモンドのように輝かすためには、こういった意識と発想の転換が必要だといえます(←この下線部には同意)。すなわち、自分の死の瞬間を想定して、現在までの自分の生き方を反省してみることです(←これは今現在のあなた=大川本人に言ってやりたい文言だ)。これは、第三者の立場に立って反省するということと、同じだといえます。そして、これが、ダイヤモンドの時間を生きる秘訣なのです。密度の高い、煌めきのある人生を生きる秘訣なのです。
シリウスから来た女」の続編part2
【この原点「0」に対して、四次元に鎮座する魂の土俵を合致させてみると、あら不思議。白と黒の……まるで囲碁かオセロのような世界観が見えて来る。これら「陣地取り合戦の勝敗」が、実際問題の「LGBTQ」に派生して来る。】のつづきから
今回は、白と黒の元になる物質の説明から。
もうお分かりだろうが、その正体は「炭素原子」だ。炭素自体は、タンパク質・炭水化物等の栄養素として摂取する、我々が日常的に体内に取り込んでいる物質だ。それが心的精神的にも作用しているのも薄々ご理解いただいているのではないか?と。
さて、その炭素原子は、4本ある手(両手?両足?)を持つ比較的他原子と結合がし易く、たくさんの化合物を生成できるのが特徴と言える。……ということは、「変幻自在な物質」とも言えるのではないか?と。
不肖私は、幼少時から他人の身体、特に腹の中に、この炭素という微粒子の存在を、形ある状態で、且つ肉眼?霊眼?で見ていた。何を見ているのか?よく分からないで視えていたが、誰かに聞いて良いか?どうか?は、「これって、聞いちゃいけないよな……」という感じでやり過ごして来ていた。なので残念だが、いまだに誰かと「これ」についてを語り合ったことがない。無論?「炭素」という単語を知ったのは、中学生だった。
この炭素、私には無彩色の状態で見えて来るのだが、色が付いている場合もあった。それについて「何が不思議だったか?」というと、それ自体が正真正銘の「色」であって、「光」ではないのだ。なので、「色を作る元が『炭素』なのか?」と思っていた。つづく R5/8/9㈬23:32