シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

57.シリウスから来た女part.2「無彩色=白黒を構成する元素 」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-60)[太陽の法:7夢をいだけ]…

 人生には、夢が必要です。夢のない人生には、希望がありません。自らのつくった悪を反省し、善念を取り戻すことは、もちろん重要です。しかし、私たちの人生とは、マイナスをゼロにするだけの、プラス・マイナス・ゼロ人生だけではものたりないのではないでしょうか。

 夢をいだくとは、できるだけすばらしい人生の設計をするということです。たとえば、建物を建てるときには、設計士が図面をつくり、それを見て、大工さんがすばらしい家屋を建ててくれます。 しかし、私たちの人生の設計士とは、ほかならぬ私たち自身なのです。ですから、私たち自身が立派な設計をしなければ、できあがった建物はでたらめなものになってしまいます。家を建てるときには、あんなにも設計図を気にするのに、自分の人生となると、なぜ設計図をつくらないのでしょうか(←いいや、誰しも出生前には設計図的な未来図は作っているはずだ。が、産まれ落ちる衝撃で、あらかた忘れ去ってしまうらしい。←もちろん人にもよるが。それらを軌道修正してくれているのが守護天使だ。……なのに、どうしてか?悪魔の方が馬が合う人が多いらしく、自然と仲良くなっていってしまうのだ。往々にしてだが「残念な結果」が多発。これからそれもシリウスpart.2の方で詳しく?記していくつもり)。それだけ無鉄砲に人生を生きているということです。ゆきあたりばったりに人生を生きている人が、あまりにも多いということです。

 ところで、設計図といっても、そうむずかしく考える必要はありません。要は、いかに夢をいだくか、夢を描くかということなのです。夢をいだいている人と、そうでない人とでは、人生を生きる自信がまったくちがいます。他人に対する説得力がちがいます。

 夢をいだいている人に出会った日は、一日中、とてもしあわせな気分になるでしょう。よし、自分も、ひとつ、やってやろうという気持ちと同時に、よし、この男を助けてやろうという気持ちになってくるはずです。

「夢をいだく」ということのなかには、人を酔わせるなにかがあるのです(←ここでも「自己紹介=体験談」が始まったらしい★)。いままで、世に立って、後世に残るようなような偉業をなしとげた人で、夢をいだかなかった人は、おそらくひとりもいないと思います(「偉業」←これは「夢」で済まされるものとそうでないものとがあるだろう。それが「生まれて来た目標だし“目”的」だ。これまでに輩出されている男性(の宗教家や哲学者)は、とかく「自分と一緒」と考えたがる。それが間違いの元だと気づかないで、それを他人に押し付けている場合が多く見受けられて来た。それでどれだけ多くの宗教信者が、哲学者集団が、多くの道連れを作り出し、自分と同じ地獄に陥れて逝ったことか。だから今回は、女にやらせろということで「女性性の時代」と言われているのではないだろうか。

女は元々「同一体」という自覚を根に持っているから、それで多くの悲劇が生まれた場合もあるだろうが、今回は違う目論見が有る。それも天界の、これまでの角質(=確執)化した実績と、その経験値をバネに、試行錯誤した結果の対策だ★仕上げをごろうじろ)。人間として生まれて、この世に生きる以上、大きく生きてみようとする気概は、非常に大切です(←これ、「小さい者(子)ほど見たがる夢」の話よね)。ミノ虫のように小ちゃくなっているからといって、それが謙虚だということではないのです。

 謙虚さとは、自らが大きくなっていこうとする過程にこそ、必要だといえます。自らが自信満々に生きているからこそ、謙虚さということが必要なのです。謙虚さとは、すなわち、ブレーキです。しかし、ブレーキだけでは、自動車は前に進みません(←自動車だったらそうだけど、人間は自動“車”じゃないから、何をやっても前に進まない人もいれば、動かない人も居る)。自動車が前に進むために、いちばん大切なのは、アクセスんです。アクセルがなければ、自動車は、その機能をはたせません。そして、ブレーキは、用心のためにあるのです。暴走しないように、事故防止のために、ブレーキはあるのです。

 私は、地獄に堕ちることについての警告をずいぶんしてきました(←実録「ミイラ取りがミイラ」化)。しかし、地獄に堕ちることをおそれて、毎日毎日、念仏ばかり唱え、アーメンばかり唱えていても、その人は、いっこうに立派にはならないはずです(←立派になることはそんなに大事なことか?私は「立派」より「自立」の方が、よっぽど大事なことだと考えている。これ(を信者に広めちゃったん)じゃ〜地獄にも落ちるはずだ)。アクセルを踏み込まなくてはだめなのです。スピードが出すぎたと思ったら、ブレーキを踏む。そのために、ブレーキがあるのです。しかし、いつも、前向きに、向上をめざしている人生ならば、ブレーキが故障していないことだけを確認しておけばいいでしょう(←ああ、これがこの人の「過信」の証拠だ)。まちがっていたら、すぐに反省して(過信は、考え方をどうにか捻じ曲げていくから、最後にはヒッチャカメッチャカになってしまうのよね。自己(=事故)反省は地獄でねってな話に)、軌道修正ができる自分であることを、日々、点検できたなら、いさましくアクセルを踏み込んでゆくことです。それが、夢をいだき、その夢を実現してゆくということなのです(←自己肯定感ハンパない!!!)

 夢をいだく効用は、単に設計図をつくるだけではありません。それには、ひとつの神秘的な作用があります。夢とは、持続する心のビジョンです。それは必ず、あの世、すなわち、実在界の守護・指導霊たちに通じます。実在界の守護・指導霊たちも、つねづね、どうやって地上界の人びとを守護・指導しようかと頭をいためているのです。ところが、地上生活をしている人たちは、どの人も、この人も、うたかたのごとき想いばかりが心に去来して、なんらしっかりとした人生の指針をもっておりません。どのように、自分は生きたいのかについてさえ、確固としたものをもっていないのです。

 こういう人に対しては、一体どのように守護・指導ができるのでしょうか。生きている人間を根本から教え込むということは、この世の人間の主体性を失わせます。あの世の守護・指導霊がやってよいことといったら、生きている人間に、インスピレーションを与えることぐらいです。通常は、それがすべてなのです(←この人、「これが全て」じゃない感じが否めないのはどうしてなのか??……もしや「俺様は『通常』じゃない」と思い込んでいるからなのか?!!)

 しかし、しっかりとした夢をいだいている人ならば、その人の夢がどうやったら実現できるかを、守護・指導は考えていればよいし、それにそったインスピレーションを与えればよいのです(←なんなん?この虚心【:いつわりの心】感&増上慢wiki:増上慢(ぞうじょうまん)とは、仏教でいまだ悟りを得ていないのに得たと思念して高ぶった慢心のこと四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。すなわち自己の価値をそれ以上に見ることをいう。また俗にいう自惚れに相当する。の典型だ、この人★前頁であれだけ偉そーに記していたくせに自分自身のことはやっぱり棚上げだ。程度がひどく醜い)ですから、しっかりとした夢をいだき、夢を描いていさえすれば、あの世の守護・指導霊たちの援助を受けて(やばい。これ=指導霊頼みだったのか?)、実現できる可能性が高いといえます(←下線部はもう「過信している人の戯言」にしか聞こえて来ない)

 実をいうと、これが、ほんとうの意味での自己実現なのです(←ひど過ぎる。大谷翔平選手の実現の仕方が「本来のそれ」だ)。つまり、自己実現のためには、まず、夢をいだく。そして、それをビジョン化し、祈りによって、守護・指導霊にお願いし、やがて具体化するというプロセスをとるわけです。自分のいだく夢が、自分の人格の向上と、人びとのしあわせにつながる必要あるのは、当然です(←もうダメだ、この人の論。完全に破綻してる)

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

この炭素、私には無彩色の状態で見えて来るのだが、色が付いている場合もあった。それについて「何が不思議だったか?」というと、それ自体が正真正銘の「色」であって、「光」ではないのだ。なので、「色を作る元が『炭素』なのか?」と思っていた。】のつづきから

 まず私事から。2016年度全科履修生として放送大学に入学し、当初は全ての科目に於いてアップデートのつもりで「自然と環境」コースを専攻した。化学の先生から講義中に、「“色”は金属から作られる」と教わった。なので、それによると、色を作る要素は「炭素」ではなく、「金属元素の化学反応から作られている」となる。この問題については、分野が違えば異論も出てきそうだが、概ね学術界ではそのような定義や解釈から「色という“モノ”が成立している」らしい。

 では、私の眼に映って来ていた、あの白や黒、または灰色等のグラデーションの物質として視えていた“モノ”は、なんだったんだろうか?? と。

 ここでまたも「色」を辞書で引いてみる。注:だけを参照する。

【色:光による視神経の刺激が脳の視覚中枢に伝えられて生ずる感覚。色相(色あい)・明度(明るさ)・彩度(あざやかさ)の三属性によって表される。また,特に白や黒を除いていう場合もある。色彩。

 上記を参照すると、化学の先生からお聞きした「色」は、無彩色「白や黒」を除いた、カラーの部分を「色」と定義されていたのではないだろうか??との疑問が湧いた。……それを考慮すると、墨汁の墨は炭から作られ、それこそ「炭素」からだ。またその炭を灰化すると「白」になる。故に、白と黒という物質的な要素は、やはり「炭素」ということにはならないだろうか。否、そういうことになるかと。ということで、私が霊視?肉眼?で見ていた「あの物質達」の正体は、元素の「炭素」となる。その根拠も、キラキラと輝く「炭素化合物」がダイヤモンドとして存在しているからだ。

 実際、それは「中道」を通して視えていた物質なので、次は「中道」に焦点を当てて分析してみる。 つづく R5/8/10㈭23:22