シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

58.シリウスから来た女part.2「中道内は無彩色の世界」という根拠

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-61)[太陽の法:8黄金の勇気をもて]…

 勇気⎯⎯このことばを聞くと、胸が高鳴るのは、私ひとりだけでしょうか。勇気ということばを聞くと、私は、大木のなかに打ち込まれてゆく鉞を思い出します。カーン、カーンと森林にこだまするあの勇ましい生命の鼓動を聞いているような気持ちにさせられます。この勇気という名の鉞があるからこそ、私たち人間は、人生の苦難という名の大木を切り倒してゆけるのだ、と私は思うのです。

 ですから、人生にくじけそうになったときには、自分には、勇気という鉞があるのだということを、どうか思い出していただきたいのです。自分がとてもみじめにうちしおれてしまったときには、神さまは、私たちに、勇気という名の鉞をくださっているのだということを、思い出してほしいのです。

 人間は、肉体をもって生まれ落ちると、なにもわからなくなるのです。つまり、自らの五官だけをたよりとして、手さぐりで生きてゆかねばならなくなるからです。だからこそ、神さまは、「運命の森を切り拓いてゆけ」と、私たちが生まれるときに、勇気という鉞をお与えくださったのです。ですから、私たちのだれもが、この鉞を腰にぶらさげているのです。 なぜそのことに気がつかないのでしょうか。「苦しい」といって、他人にその解決をたのんでまわる前に、「悲しい、悲しい」といって、他人に同情を求めてまわる前に、なぜ勇気の鉞で、自分をしばっている運命の糸を断ちきってしまわないのですか。

 禅の公案のなかに、「大力量人」という話があります。これは、中国の無門慧開和尚の編著の「無門関」という書物におさめられた、全四十八則の公案中第二十則にある話です。

「松源和尚云く、大力量の人、甚に因ってか脚を擡げ起さざる。又云く、口を開くこと舌頭上に在らざる」

「無門曰く、松源謂つべし、腸を傾け腹を倒すと、只是れ人の承当するを欠く。たとい、直下に承当するも正に好し、無門が処に来たらば痛棒を喫せしめん、何が故ぞ、聻。真金を識らんと要せば火裏に看よ」

「頌に曰く、脚を擡げて踏翻す香水海、頭を低れて俯して視る四禅天。一箇の渾身著くるに処無し。請ふ一句を続け」

 この公案の意味は、結局、つぎのようなことです。人間というのは、自らが大力量人であることを忘れ、この世的な、常識、世間の目、医者のことばなどに、催眠術にかかったようになって、自らを、いつ故障するかわからない唯物的な肉体人間だと思っている。しかし、ほんとうの自分というのは、神仏の子であり、無限の力をもっているのだ。見よ、禅定により、宇宙即我の体験をしたならば、自らのほんとうの姿、霊体は、地球をも眼下に見おろすような巨人となり、 高次元大宇宙の水溜りである、この三次元宇宙の銀河星雲(香水海)など、脚をもちあげて踏みおろせば、水しぶきになって、飛び散ってしまい、天界と対比される四次元や五次元といわれる人間界の霊界(四禅天)など、頭をたれて見おろさなければならないほどの、 はるか下のほうの世界なのだ。

 どうやら、この無門和尚といわれる方は、如来界の悟りを得ていた人のようです。如来界の悟りを得ると、人間は、自らの真の姿は、五尺の肉体に宿っているような、そんなちっぽけな霊魂ではなくて、宇宙大にひろがるエネルギー体だということがわかります。そして、禅定しているときに、自分の体がみるみる大きくなって、地球をはるかに眼下に見おろすような体験をします。

 本来、人間というものは、そういう大力量人に、すなわち、自由自在、融通無碍な存在なのです。その人間が、三次元的感覚にしばられ、あるいは、学校教育や世間常識にしばられ、「霊などない」「あの世の世界などないのだ」と思い込んで、自らの手足をしばっているのです。そして、病気になればなったで、「死にたくない、死にたくない」といいつづけるような、あわれむべき、小さな存在となっているのです。

 黄金の勇気をふるい起こし、黄金の鉞をふりあげて、迷妄という名の大木を切り倒すことです。力強く鉞を打ち込んでゆくことです。自らの悩み、苦しみ、あるいは、運命のしがらみに、勇気をもって、うちかってゆくことです。そして、黄金の勇気をふるって、自らをしばる運命の糸を断ち切ることです(←?運命の糸は意図だから、最初から断ち切ってはダメな“モノ”ではないのか?それが必然に起きて来る「設計図」だから)

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

実際、それは「中道」を通して視えていた物質なので、次は「中道」に焦点を当てて分析してみる。】のつづきから

 この「炭素」らしき超微細素粒子の振る舞いが、他人の腹の中に視えるなんて事は、最初は全く想像できなかった。が、どうして「白黒なのか?」、現実社会と同じように「カラーで視えて来ないのは何故か?」が不思議だった。その理由は、今だから言える。ということで、またも以下チャクラの図を使って説明を試みる。

チャクラの図

1,2 両図にある「中道」は管状だが、図1 では各階層のチャクラの位置が被っていて、それではこれから説明しようとする内容がよく分からない。なので、図2 を使う。

 図2 の頭頂7次元のチャクラと肛門1次元のチャクラ以外の、2、3、4、5、6次元のチャクラの窓=扉は、「中道」のちょうど外側に位置しているのが分かるだろう。それら五つの次元のチャクラの窓=扉は、ほぼ体側に張り付くようにして備わっている。……これを「事実」として受け止めると、実際の「中道内には色が付いていない」という事が推察されるだろう。またそれは、「中道の内側となる環境には、色が備わる要素が無い」とも言えるのだ。「管状」ということは、外界から色が入る要素を排除され、守られた環境である中道内では、「無彩色がその世界観」ということになる。

 修行していて思うこと。それは「色」とは「欲」の事で、逆に言えば「欲の世界が色を作る」のだ。過去にYouTube動画内でチャクラの色の解説をしていた私に対して、「この人(=私)、オーラの色は視えてないよ」というコメントをいただいた事があったが、ある意味それは正解で、私は色の無い世界観に身を置いていた。今はどっぷり下次元に落ちているので、色々がよく分かるようになった。が最初から、感じる粒子に「色」が対応しているので、視えないのに「色を識別できていた」。なので、赤い人が近付いて来たり、イライラする人に黄色を感じたり、好き嫌いする人にオレンジを観て来ていた。もちろん他の色々も同様にだ。(←その後、そのコメントに対して私を擁護してくれたコメ主さんもいらした。その節はお二方、どうもありがとうございました。また何か至らない点などございましたら、ご遠慮なくコメントください。今後ともよろしくお願いいたします〜☆彡)

 「宗教」といえども、それぞれが「欲望」や「願望だらけ」を吉?良し?善し?好し?とする考え方を推奨している風も感じられる昨今。昔は日本でも、「欲」を“よし”としない風潮や嫌いがあった。それが敗戦国になった頃から一転し、外国ナイズ化され、「欲望を果たすこと」が資本主義の根幹のような考え方が主流になった。精神的な世界観にみる「中道」という道から外れ、外道と呼ばれていた邪道が罷り通るようになったのが現在だ。この責任は……どこに?、誰に?一体どうなっているのか。 つづく R5/8/11㈮祝23:17