以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)
[(3-37⑷-2)[太陽の法:4如心]…
阿羅漢の段階から転落してゆく理由は、もうひとつあります。阿羅漢とは、たとえば、金属でいえば、表面の錆を落として、ピカピカと光りはじめた段階だといえます。つまりは錆どめが塗っていないので、心を磨く(←「心」の分野に関しては、こういう表現は使わない。私が大川隆法を偽教祖と感じてしまう点が、こうした「日本語の使い方」が見えない分野の法則に、あまりにも則っていないと思われるからだ)ということをしばし忘れると、すぐ錆が付着してしまうのです。ですから、心が錆てきているにもかかわらず、そのことに気がつかないで、自分を「大先生」だと思って悟りすましていると、たいへんなことになってしまいます。【辞書より〈句項目〉心合わざれば肝胆も楚越の如し・心入る・心内にあれば色外にあらわる・心後る・心重し・心及ぶ・心が痛む・心が動く・心が折れる・心が通う・心が騒ぐ・心が弾む・心が晴れる・心が乱れる・心利く・心ここに在らず・心知る・心好く・心付く・心解く・心に浮かぶ・心に懸かる・心に懸ける・心に適う・心に刻む・心に染まぬ・心に染む・心に付く・心に留める・心に残る・心に任せる・心にもない・心の仇は心・心の欲する所に従えども矩を踰えず・心は二つ身は一つ・心広く体胖なり・心を合わせる・心を致す・心を痛める・心を一にする・心を入れ替える・心を打つ・心を奪う・心を置く・心を起こす・心を躍らせる・心を鬼にする・心を傾ける・心を砕く・心を配る・心を汲む・心を籠める・心を摑む・心を尽くす・心を留める・心を捉える・心を取る・心を引く・心を開く・心を用いる・心を以て心に伝う・心を破る・心を遣る・心を許す・心を寄せる ←これらは「心」に関する常套句や慣用句になっているが、「心を磨く」という表現は見当たらない。そもそも心は磨ける“モノ”ではないからだ。「騙されている」方だから仕方ないかもしれないが、よく知りもしないで「心霊」や「精神」や「魂」や次元についてを語っている事自体が「騙り」の証明だ。私だったら超お恥ずかしい限りだが、元が「恥知らず」だと、こうした行為が簡単にできる。結論から言えば、「豚もおだてりゃ木に登る」……大川と名乗った人物が、「いかに自分が騙されていたことに気づけるか??」←これが現在の彼の、地獄からの脱出劇には不可欠だろう。赤ちゃん姿の彼は猛省中みたいだが、なんとか早く気づいてもらいたい。
心がピカピカに光っているときは、心の表面もツルツルしていますから、たとえいかなる悪想念が向かってきても、それをはねかえすだけの力があります。ところが、心が錆ついてくると、表面もザラザラとして、すべりが悪くなってくるために、いろんなものが引っかかってくるのです。←心は水の性質をしているので、ツルツルもザラザラもしない。死んでももっと勉強しろ、バカ。
そして、このザラザラに、ハーゲンを打ち込んで、ザイルをたらしてゆく者がいる。すなわち、地獄の悪魔です。地獄の底までたれさがったザイルをたよりに、暗黒界のさまざまな生物がはいあがって来る。それが亡者であったり、動物霊であったり、サタンであったりするのです。←はいはい、バ〜カ。
ですから、このように、せっかく、阿羅漢の境地にたどり着いていた宗教指導者のなかには、心に魔の侵入をゆるしてしまう人が出てくる。そして、世の人びとをまどわし、狂わせてゆくのです。ここに、もっとも危険な落とし穴があります。←あなた、自己紹介してる?★
そこで、大切なのは、心の錆がつかないように、つねひごろから、錆をよく落としておくことです。ピカピカに、よく磨いておく。これが大切です。心に錆というデコボコをつくっておくと、いつなんどき、悪魔がザイルのついたハーケンを打ち込んでくるかわかりません。←同上。
その悪魔を蹴落とそうと、躍起になっていても、今度は、背後からハーケンを打ち込まれてしまう。そうなると、どうしようもありません。単なる浄霊や悪魔はらいをしたくらいでは、ほんとうに救われるということはないのです。つまり、心の錆を落とさないかぎりは、はらってもはらっても、悪魔たちが忍び込んでくるからです。
心を光らせる。だからこそ、心を磨くことが大切なのです。←こんなの無理。また、できれば、心に防腐剤、錆どめを塗っておくことです。←こんなのはもっと無理。この錆どめこそが、さらに、一段と高い悟りにつながるからです。←はいはい、よくこんな事、「上から言える」よね。
「シリウスから来た女」の続編part2
【豚に向かって「豚に真珠」、馬に向かって「馬耳東風」、犬に対して「犬に論語」等々を言って聞かせても理解なんか出来っこない!!という話。この不肖私は、実際に二十年以上も掛けて、やり続けていた事実を思い出すだけで非常に疲弊する。】のつづきから
豚自身は「私は『真珠』がよく似合う♡」と思い込んでいたり、馬の方が「念仏大好き!!」だったりして、私の心眼はその頃もよく見得ていたので、最初から真理の勉強に対する向き不向きがよく分かった。なので「♪よせば良いのに〜♪」……と内心思いながらも、「諦める」ことが嫌いで、「その人がその人自身を諦めないのに、他人の私が諦めてしまったら、その人は真理をどう理解したら良いのか?!!」と、熱くなっていった。またそれとなく「豚をおだてて木に登らせてしまった」等も、頻繁にしでかしていた。それでも「真理の話を聞きたい!!」と願う人たちに、話さないことなどできず、当時の私はブログで「やってみなけりゃ分からない!!!」を常にスローガンにして自分自身を奮い立たせていった。……はぁ〜道理で、疲れ&憑かれ&突かれ(←ツッコミ)るはずだった。 R5/7/16㈰23:11