以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)
[(3-54⑹)[太陽の法:第6章獅子のごとく吼えよ 1目をひらけ]…以下の内容に関しては、使用している単語や表現方法こそ、私のそれとは違うと思えるが、内容的にはほぼ同じ見解だと手を打てる。……最初、もう散々な“事”を始めてしまったと後悔していた節もあったが、ここに来てようやく最後の方で意見の一致が見られ、内心ほっとしている感がある。
みなさん、私たちは、一回や二回、地上に生まれて来たような存在ではないのです。第5章で、ここ百万年ほど前の歴史をふりかえりましたが、あれだけの文明の興亡があり、あれだけの大陸の浮沈があったのです。それぞれの文明に生まれていた人間は、私たちとはまったく別の人間だったのでしょうか。降ってわいたように、人びとが出て来たのでしょうか。
そうではありません。それぞれの文明に生きて、アトランティス人やムー人だったのは、実は、ほかならぬ私たち自身だったのです。私たち自身の魂の奥にある記憶の宝庫のなかには、過去、何十、何百の文明に生まれかわった記憶が厳としてあります。霊能をもった特殊な人だけにあるのではありません。それは、すべての人に、平等に与えられている、魂の記憶なのです。しかし、人間は、永年の転生輪廻の過程でつちかったそうした英知を、肉体に宿ったという、ただそれだけの事実で忘れてしまったのです。
あなたたちが、自分自身だと思っているものは、あなたたちのほんものではなくて、ぬいぐるみにしかすぎません。肉体とは、魂がこの世で修行を積むためののり舟であり、自動車にしかすぎないのです。ですから、舟の船頭があなた自身であり、自動車の運転手があなた自身であって、舟や自動車は、あなた自身ではないのです。
そこで、自分の肉体をあやつっている、もうひとりの自分というものに、目覚めていただきたいのです。 ほんとうの自分自身にめぐりあっていただきたいのです。
わずか、十年や二十年の学校教育で受けた知識をもって、世界のすべてがわかったなどと思ったら、とんでもないまちがいなのです。自分自身で、ほんとうの自分というものを探求しなければ、一体だれが、おせっかいにもそれを教えてくれるというのでしょうか。ほんとうの自分にめぐりあうためには、自分自身で、ほんとうの自分とはなにかを探求するしかないのです。
では、ほんとうの自分に出会うとは、どういうことでしょうか。それは、すなわち、魂の真実に気づくことです。そして、魂の真実に気づくためには、自らの心を徹底的に探究しなくてはなりません。自分で自分の心を探究しないで、一体だれが、その真実を教えてくれるというのでしょうか。あなた自身が、あなたの真実の姿を語れずして、一体だれが、それを語ってくれるでしょうか。「悟り」とは、ほんとうの自分自身に出会うことです。ほんとうの自分の真実なる心を、自分自身で悟れることです。つまり、これが「私だ」といいきれることなのです。
人間の魂は、神からわかれてきたものであり、神の自己表現の芸術であると、私は考えています。ところが、人間は、創造の自由と、行動の自由とを与えられたことから、孫悟空のまねをして、わがままいっぱいに生きてきました。そして、いつのまにか、親である神のことを忘れ、神の心を忘れ、自我我欲と煩悩のままに、地上生活を営むようになってしまったのです。実在界の天国よりも、この地上界に執着を感じはじめたときに、人間の堕落が決定的となりました。 だから、地上界そっくりの欲望と闘争の世界をあの世につくり、それが地獄となってしまったのです。
自らを知るとは、自らが神の子であることを知るということです。神の御心を知るということなのです。そして、目をひらくとは、自らの霊性に気づき、四次元以降の実在界の存在に対して心をひらくということなのです。
もしあなたが、現在の自分に満足し、現在の人間観に満足しているならば、居眠りをしていてもけっこうです。しかし、真実目をひらきたいならば、まず自らの心を探究することからはじめるべきです。神の国への手がかりは、そこにあるからです。
シリウスから来た女」の続編part2
【目に見えない分野を、科学的な見地から分類するような構想を、誰かと始めたいと、そうしたことを一緒に考えてくれる「同志」を探したかった。……実際、今も探したいのは山々だ。】のつづきから
元々幼少時から「何やら他の人とは違う、“変テコな霊的感覚”で生きている」という自覚はあったので、私の話に興味を持たれたりして講話会に参加される方々に、私は「なんだか分からないけど不思議な話をする人」という認識だけで、なかなか職業的な発想での想像がつかないらしかった。そりゃそうだ。私自身でもいまだに、自分がこの世的な職業名で「何者」と肩書きすれば良いのか?が分からないのだから。
なのでいくら私が「霊能者ではありません(←浄霊を仕事にするのが嫌だから)」、「占いはしません(←こんなわざわざ“ヤバいもの”を観るくらいなら死んだ方がマシ★私の責任感が許さない。一方統計学を行使する「占い」は世間で認知されている)と、何度も否定し言い張っても、私の能力に俗称も言い当てられなかった私に対して、皆さんの頭の中では納得できる“モノ”が結局「霊能者」としてしか扱いきれないのだろうと、多分それも致し方がないのだと考えることにしていた。
なので私の方から何か一番売り物になりそうな実力を発揮できる“モノ”……それが、21世紀の健康を考える気の会で開花した天使との交流や天使の羽を生やすエネルギーを注入する能力、また「守護天使と会話し、天使のエネルギーを『絵』にお入れし(て売り)ます」だった。そしてそれを餌にして「同志」を見つけ出そうと、「真理の話」に興味がある人だけを対象とした「勉強会を私としませんか?」←お誘いすることにした。
“こんな感じ”で私と関わることで、ある種の霊的能力を皆さんに開花させられ、それも私の実力として示していければ、それはそれで後々の問題=「同志を見つけ出すこと」が解決できるかも?と。そうして「やってみなけりゃ分からない」このスローガンで、ひとまず何か問題が発生するまでは、やり続けていこうと決心した次第だ。
……それが、2006年「二年間の勉強会」を始める前の私の目論見だった。つづく R5/8/4㈮23:48