注:以下【 】内が「太陽の法」からの原文、青字が私の解説等です。
【3存在と時間
(前略) このように、この三次元世界にあるものはすべて、原型の誕生⎯⎯発育、または、フル稼働⎯⎯衰退、または、不調⎯⎯死滅、または、解体という四つの過程を必ず経ることになります。
↑ ここで「⎯⎯」←これで結んでいる四つの過程の、それぞれの単語同士の関連に違和感を感じる。
別のことばでいうならば、この三次元現象世界の存在は、すべて変転の時間を内包しているのだともいえます。すなわち、静止した存在はありえないのです。すべての存在は、変転を前提としてあることをゆるされているともいえます。
しかし、変転、あるいは、流転を条件づけられているこの世の存在とは、 時間という映写機によって投映をくりひろげられているフィルムだともいえます。つまり、存在とは、そのなかに流転するという性質⎯⎯時間を内包しているのです。
もう少しわかりやすくいうならば、この世のものは、すべて時々刻々に変化をしており、まったく同じ状態であることは不可能だということです。たとえば、私たちの肉体細胞をとってみても、昨日の自分と、今日の自分とを比較するならば、まったく同じ状態ではないのです。
↑ ここでは「この世のものは、時間経過によりまったく同じ状態ではない」と述べているようです。これには私も納得。それが「座・真理」だから。
しかし、日々変化する肉体細胞によって構成されているわけですが、大川隆法なら大川隆法という名で称されている実体があるのです。その肉体細胞を統一している実在があるということです。
すなわち、時間の流れのなかで流転する存在の背後には、永遠に変化しないなにかがあるのです。人間にして然り、動物にして然り、植物にして然りです。
たとえば、植物を一本の花たらしめているものは、まったく偶然に集合した植物細胞ではありません。もし偶然に集積した植物細胞が、今日という日の一本の花を形づくっているならば、日々流転し、変転するという法則のもとでは、その花は、やがて花以外のなにか別のものにかわってゆくのがほんとうです。
↑ 下線部分は全体的にレトリック(辞書:実質を伴わない表現上だけの言葉。表現の巧みな言葉)であり、【もし偶然に集積した植物細胞】←どうして?「もし偶然に集積した」に掛かる名詞を、「植物細胞」と「植物」に限定したのか?が疑問だ。実際、植物同士であれば、あり得る話だろう。例:接木。品種改良(人工交配)(←人工的であるようだが、偶然性に於ける確率も高い)。遺伝子組み換え。
しかし、やはり花は、花にしか過ぎません。(中略)
そこには、変化のなかにあって変化しないなにか、流転のなかにあって流転しないなにかがあるのです。そして、このなにかこそ、あるいは実在といわれ、あるときは理念といわれ、また、あるときはイデアといわれるものなのです。←この人はバカなのか?「真理」を上述していた筈なのに。……「なにか・実在・イデア」これこそ「流転している」存在であり、それを「進化(=成長・変化等)」と呼んでいる。霊的進化は万物がして当然で、逆に進化しない“モノ”、変化しない“モノ”は宇宙の中ではあり得ない。宇宙の全ての存在、全ての概念(「時間」という存在の価値観や意味は様々だ。それこそ「人の考え方」に左右される)に於いて、常に宇宙の全てが変化・流動している。
この人のここまでは「分かった風」を装っているが、「霊的な本質」がまるで分かっていない、しかも「それ」を理解できてもいない。その程度の人間の方が、ある一定数の「一般人の常識」やその意識を乗っ取れるのかも?しれない。
こういう目に見えない感覚的な内容を理解するにはそれなりの経験値が必要なので、「分かる人」の方がこの世では断然マイノリティーで……残念だ。「多くの支持者が居る」ということは、逆に言えば……「簡単に操れる」というものでもあるかと。多数決の妙はこういう時代にこそ厄介だ。
「色即是空 空即是色」という、仏教の有名なことばがあります。このことばも、私が述べてきた、変化の背景にある不変なるものの実在、普遍的なる存在が投映されて、流転するこの世的存在となっていることを道端した真理のことばなのです。←確かに「色即是空 空即是色」は「真理」の言葉だ。しかしこれも悪いけど、分子や原子、もっと言えば素粒子等の「超極微細な世界観」の内容を指していた言葉なのよね。当時の人の理解には当然だけど及ばないので、これまで「それらしく」訳されて来たけど、元々この世の実存を創った創造主と言われる存在達のレベルでは、その超極微細な点から発祥させているから「因」や「縁」という、糸の中にある点=「中心」←この「中に“心”が込められている」←この見地から常に考えると「物事の中心にはいつも心が存在するよ」、そういうことから「色即是空」の「空」の意味の真意も「心=見得ない“モノ”から出来ているのよ、全てが」となるのよね。
私たち人間は、時々刻々に変化するたよりない肉体細胞の集合体をもって「人間」と称しているのではありません。人間の本質は、㋐時間の流れのなかで変転してゆくはかない存在ではなくて、㋑永遠に不変の実在なのです。この不変の実在こそ、生命であり、魂であり、霊であります。
↑ これらも「レトリック」。
【私たち人間は、時々刻々に変化するたよりない肉体細胞の集合体をもって「人間」と称しているのではありません。】←いいえ、人間と称しているのは、まんま「時々刻々に変化するたよりない肉体細胞の集合体」のことです。
人間の本質は【㋐時間の流れのなかで変転してゆくはかない存在ではなくて】←ではなくて、【㋑永遠に不変の実在なのです】←こんなことこそあり得ない。前後の文章が全然噛み合っていない。
私は、「霊」ということばでもって、まか不思議な特異現象をさしているのではありません。それは、人間の本質であり、不変の実在であり、生命のイデアなのです。
↑ これも全然違う。「生命」は「肉体」と同じ=同意(義)語だ。「霊体」も人間の設計図というだけで、「不変」ではなく、「生命のイデア」はイコール「実存」だけど、「生命」は「肉体」という単語に掛かる「息吹(「息=呼吸をしている」という意味)」だから、「生命」は「霊」という単語とは一緒には扱えないし括れない。
肉体人間を支配している個性ある知性。肉体人間を存在せしめている個性ある意識体。これらが、人間の本質なのですから、㋐霊ということばに対して、世人がいかなる印象をもとうがもつまいが、㋑真実はひとつなのです。すなわち、花には花の生命体があり、人間には人間の生命体があるということです。】
↑ まただ。㋐と㋑は道理として繋がらない。㋑に関しちゃ、言い方の妙、つまりレトリックそのもの。……この先が思いやられる。 R5/5/31㈬23:49