シリウスから来た女part 2&0次元からの真理の仕組み&ハピわくサークル

見得ない世界で横行する事実関係の説明がつかない「スピリチュアル詐欺ビジネス」。 見た目の華やかさから足を踏み入れてしまったばっかりに、各スピ教祖の利己満妄想スピの呪縛から、本物の霊的世界の様相を知り、みんなが真心から繋がって生きていくためのサークルです。

ハピわくサークルでは、「子どもと大人が安心して支え合える地域社会」を目指しています。 ひとりとひとり、みんながみんな、お互いがそれぞれで心豊かに生きられる、そんな色とりどりな工夫をご一緒にしていきませんか?

58.シリウスから来た女part.2「中道内は無彩色の世界」という根拠

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-61)[太陽の法:8黄金の勇気をもて]…

 勇気⎯⎯このことばを聞くと、胸が高鳴るのは、私ひとりだけでしょうか。勇気ということばを聞くと、私は、大木のなかに打ち込まれてゆく鉞を思い出します。カーン、カーンと森林にこだまするあの勇ましい生命の鼓動を聞いているような気持ちにさせられます。この勇気という名の鉞があるからこそ、私たち人間は、人生の苦難という名の大木を切り倒してゆけるのだ、と私は思うのです。

 ですから、人生にくじけそうになったときには、自分には、勇気という鉞があるのだということを、どうか思い出していただきたいのです。自分がとてもみじめにうちしおれてしまったときには、神さまは、私たちに、勇気という名の鉞をくださっているのだということを、思い出してほしいのです。

 人間は、肉体をもって生まれ落ちると、なにもわからなくなるのです。つまり、自らの五官だけをたよりとして、手さぐりで生きてゆかねばならなくなるからです。だからこそ、神さまは、「運命の森を切り拓いてゆけ」と、私たちが生まれるときに、勇気という鉞をお与えくださったのです。ですから、私たちのだれもが、この鉞を腰にぶらさげているのです。 なぜそのことに気がつかないのでしょうか。「苦しい」といって、他人にその解決をたのんでまわる前に、「悲しい、悲しい」といって、他人に同情を求めてまわる前に、なぜ勇気の鉞で、自分をしばっている運命の糸を断ちきってしまわないのですか。

 禅の公案のなかに、「大力量人」という話があります。これは、中国の無門慧開和尚の編著の「無門関」という書物におさめられた、全四十八則の公案中第二十則にある話です。

「松源和尚云く、大力量の人、甚に因ってか脚を擡げ起さざる。又云く、口を開くこと舌頭上に在らざる」

「無門曰く、松源謂つべし、腸を傾け腹を倒すと、只是れ人の承当するを欠く。たとい、直下に承当するも正に好し、無門が処に来たらば痛棒を喫せしめん、何が故ぞ、聻。真金を識らんと要せば火裏に看よ」

「頌に曰く、脚を擡げて踏翻す香水海、頭を低れて俯して視る四禅天。一箇の渾身著くるに処無し。請ふ一句を続け」

 この公案の意味は、結局、つぎのようなことです。人間というのは、自らが大力量人であることを忘れ、この世的な、常識、世間の目、医者のことばなどに、催眠術にかかったようになって、自らを、いつ故障するかわからない唯物的な肉体人間だと思っている。しかし、ほんとうの自分というのは、神仏の子であり、無限の力をもっているのだ。見よ、禅定により、宇宙即我の体験をしたならば、自らのほんとうの姿、霊体は、地球をも眼下に見おろすような巨人となり、 高次元大宇宙の水溜りである、この三次元宇宙の銀河星雲(香水海)など、脚をもちあげて踏みおろせば、水しぶきになって、飛び散ってしまい、天界と対比される四次元や五次元といわれる人間界の霊界(四禅天)など、頭をたれて見おろさなければならないほどの、 はるか下のほうの世界なのだ。

 どうやら、この無門和尚といわれる方は、如来界の悟りを得ていた人のようです。如来界の悟りを得ると、人間は、自らの真の姿は、五尺の肉体に宿っているような、そんなちっぽけな霊魂ではなくて、宇宙大にひろがるエネルギー体だということがわかります。そして、禅定しているときに、自分の体がみるみる大きくなって、地球をはるかに眼下に見おろすような体験をします。

 本来、人間というものは、そういう大力量人に、すなわち、自由自在、融通無碍な存在なのです。その人間が、三次元的感覚にしばられ、あるいは、学校教育や世間常識にしばられ、「霊などない」「あの世の世界などないのだ」と思い込んで、自らの手足をしばっているのです。そして、病気になればなったで、「死にたくない、死にたくない」といいつづけるような、あわれむべき、小さな存在となっているのです。

 黄金の勇気をふるい起こし、黄金の鉞をふりあげて、迷妄という名の大木を切り倒すことです。力強く鉞を打ち込んでゆくことです。自らの悩み、苦しみ、あるいは、運命のしがらみに、勇気をもって、うちかってゆくことです。そして、黄金の勇気をふるって、自らをしばる運命の糸を断ち切ることです(←?運命の糸は意図だから、最初から断ち切ってはダメな“モノ”ではないのか?それが必然に起きて来る「設計図」だから)

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

実際、それは「中道」を通して視えていた物質なので、次は「中道」に焦点を当てて分析してみる。】のつづきから

 この「炭素」らしき超微細素粒子の振る舞いが、他人の腹の中に視えるなんて事は、最初は全く想像できなかった。が、どうして「白黒なのか?」、現実社会と同じように「カラーで視えて来ないのは何故か?」が不思議だった。その理由は、今だから言える。ということで、またも以下チャクラの図を使って説明を試みる。

チャクラの図

1,2 両図にある「中道」は管状だが、図1 では各階層のチャクラの位置が被っていて、それではこれから説明しようとする内容がよく分からない。なので、図2 を使う。

 図2 の頭頂7次元のチャクラと肛門1次元のチャクラ以外の、2、3、4、5、6次元のチャクラの窓=扉は、「中道」のちょうど外側に位置しているのが分かるだろう。それら五つの次元のチャクラの窓=扉は、ほぼ体側に張り付くようにして備わっている。……これを「事実」として受け止めると、実際の「中道内には色が付いていない」という事が推察されるだろう。またそれは、「中道の内側となる環境には、色が備わる要素が無い」とも言えるのだ。「管状」ということは、外界から色が入る要素を排除され、守られた環境である中道内では、「無彩色がその世界観」ということになる。

 修行していて思うこと。それは「色」とは「欲」の事で、逆に言えば「欲の世界が色を作る」のだ。過去にYouTube動画内でチャクラの色の解説をしていた私に対して、「この人(=私)、オーラの色は視えてないよ」というコメントをいただいた事があったが、ある意味それは正解で、私は色の無い世界観に身を置いていた。今はどっぷり下次元に落ちているので、色々がよく分かるようになった。が最初から、感じる粒子に「色」が対応しているので、視えないのに「色を識別できていた」。なので、赤い人が近付いて来たり、イライラする人に黄色を感じたり、好き嫌いする人にオレンジを観て来ていた。もちろん他の色々も同様にだ。(←その後、そのコメントに対して私を擁護してくれたコメ主さんもいらした。その節はお二方、どうもありがとうございました。また何か至らない点などございましたら、ご遠慮なくコメントください。今後ともよろしくお願いいたします〜☆彡)

 「宗教」といえども、それぞれが「欲望」や「願望だらけ」を吉?良し?善し?好し?とする考え方を推奨している風も感じられる昨今。昔は日本でも、「欲」を“よし”としない風潮や嫌いがあった。それが敗戦国になった頃から一転し、外国ナイズ化され、「欲望を果たすこと」が資本主義の根幹のような考え方が主流になった。精神的な世界観にみる「中道」という道から外れ、外道と呼ばれていた邪道が罷り通るようになったのが現在だ。この責任は……どこに?、誰に?一体どうなっているのか。 つづく R5/8/11㈮祝23:17

 

57.シリウスから来た女part.2「無彩色=白黒を構成する元素 」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-60)[太陽の法:7夢をいだけ]…

 人生には、夢が必要です。夢のない人生には、希望がありません。自らのつくった悪を反省し、善念を取り戻すことは、もちろん重要です。しかし、私たちの人生とは、マイナスをゼロにするだけの、プラス・マイナス・ゼロ人生だけではものたりないのではないでしょうか。

 夢をいだくとは、できるだけすばらしい人生の設計をするということです。たとえば、建物を建てるときには、設計士が図面をつくり、それを見て、大工さんがすばらしい家屋を建ててくれます。 しかし、私たちの人生の設計士とは、ほかならぬ私たち自身なのです。ですから、私たち自身が立派な設計をしなければ、できあがった建物はでたらめなものになってしまいます。家を建てるときには、あんなにも設計図を気にするのに、自分の人生となると、なぜ設計図をつくらないのでしょうか(←いいや、誰しも出生前には設計図的な未来図は作っているはずだ。が、産まれ落ちる衝撃で、あらかた忘れ去ってしまうらしい。←もちろん人にもよるが。それらを軌道修正してくれているのが守護天使だ。……なのに、どうしてか?悪魔の方が馬が合う人が多いらしく、自然と仲良くなっていってしまうのだ。往々にしてだが「残念な結果」が多発。これからそれもシリウスpart.2の方で詳しく?記していくつもり)。それだけ無鉄砲に人生を生きているということです。ゆきあたりばったりに人生を生きている人が、あまりにも多いということです。

 ところで、設計図といっても、そうむずかしく考える必要はありません。要は、いかに夢をいだくか、夢を描くかということなのです。夢をいだいている人と、そうでない人とでは、人生を生きる自信がまったくちがいます。他人に対する説得力がちがいます。

 夢をいだいている人に出会った日は、一日中、とてもしあわせな気分になるでしょう。よし、自分も、ひとつ、やってやろうという気持ちと同時に、よし、この男を助けてやろうという気持ちになってくるはずです。

「夢をいだく」ということのなかには、人を酔わせるなにかがあるのです(←ここでも「自己紹介=体験談」が始まったらしい★)。いままで、世に立って、後世に残るようなような偉業をなしとげた人で、夢をいだかなかった人は、おそらくひとりもいないと思います(「偉業」←これは「夢」で済まされるものとそうでないものとがあるだろう。それが「生まれて来た目標だし“目”的」だ。これまでに輩出されている男性(の宗教家や哲学者)は、とかく「自分と一緒」と考えたがる。それが間違いの元だと気づかないで、それを他人に押し付けている場合が多く見受けられて来た。それでどれだけ多くの宗教信者が、哲学者集団が、多くの道連れを作り出し、自分と同じ地獄に陥れて逝ったことか。だから今回は、女にやらせろということで「女性性の時代」と言われているのではないだろうか。

女は元々「同一体」という自覚を根に持っているから、それで多くの悲劇が生まれた場合もあるだろうが、今回は違う目論見が有る。それも天界の、これまでの角質(=確執)化した実績と、その経験値をバネに、試行錯誤した結果の対策だ★仕上げをごろうじろ)。人間として生まれて、この世に生きる以上、大きく生きてみようとする気概は、非常に大切です(←これ、「小さい者(子)ほど見たがる夢」の話よね)。ミノ虫のように小ちゃくなっているからといって、それが謙虚だということではないのです。

 謙虚さとは、自らが大きくなっていこうとする過程にこそ、必要だといえます。自らが自信満々に生きているからこそ、謙虚さということが必要なのです。謙虚さとは、すなわち、ブレーキです。しかし、ブレーキだけでは、自動車は前に進みません(←自動車だったらそうだけど、人間は自動“車”じゃないから、何をやっても前に進まない人もいれば、動かない人も居る)。自動車が前に進むために、いちばん大切なのは、アクセスんです。アクセルがなければ、自動車は、その機能をはたせません。そして、ブレーキは、用心のためにあるのです。暴走しないように、事故防止のために、ブレーキはあるのです。

 私は、地獄に堕ちることについての警告をずいぶんしてきました(←実録「ミイラ取りがミイラ」化)。しかし、地獄に堕ちることをおそれて、毎日毎日、念仏ばかり唱え、アーメンばかり唱えていても、その人は、いっこうに立派にはならないはずです(←立派になることはそんなに大事なことか?私は「立派」より「自立」の方が、よっぽど大事なことだと考えている。これ(を信者に広めちゃったん)じゃ〜地獄にも落ちるはずだ)。アクセルを踏み込まなくてはだめなのです。スピードが出すぎたと思ったら、ブレーキを踏む。そのために、ブレーキがあるのです。しかし、いつも、前向きに、向上をめざしている人生ならば、ブレーキが故障していないことだけを確認しておけばいいでしょう(←ああ、これがこの人の「過信」の証拠だ)。まちがっていたら、すぐに反省して(過信は、考え方をどうにか捻じ曲げていくから、最後にはヒッチャカメッチャカになってしまうのよね。自己(=事故)反省は地獄でねってな話に)、軌道修正ができる自分であることを、日々、点検できたなら、いさましくアクセルを踏み込んでゆくことです。それが、夢をいだき、その夢を実現してゆくということなのです(←自己肯定感ハンパない!!!)

 夢をいだく効用は、単に設計図をつくるだけではありません。それには、ひとつの神秘的な作用があります。夢とは、持続する心のビジョンです。それは必ず、あの世、すなわち、実在界の守護・指導霊たちに通じます。実在界の守護・指導霊たちも、つねづね、どうやって地上界の人びとを守護・指導しようかと頭をいためているのです。ところが、地上生活をしている人たちは、どの人も、この人も、うたかたのごとき想いばかりが心に去来して、なんらしっかりとした人生の指針をもっておりません。どのように、自分は生きたいのかについてさえ、確固としたものをもっていないのです。

 こういう人に対しては、一体どのように守護・指導ができるのでしょうか。生きている人間を根本から教え込むということは、この世の人間の主体性を失わせます。あの世の守護・指導霊がやってよいことといったら、生きている人間に、インスピレーションを与えることぐらいです。通常は、それがすべてなのです(←この人、「これが全て」じゃない感じが否めないのはどうしてなのか??……もしや「俺様は『通常』じゃない」と思い込んでいるからなのか?!!)

 しかし、しっかりとした夢をいだいている人ならば、その人の夢がどうやったら実現できるかを、守護・指導は考えていればよいし、それにそったインスピレーションを与えればよいのです(←なんなん?この虚心【:いつわりの心】感&増上慢wiki:増上慢(ぞうじょうまん)とは、仏教でいまだ悟りを得ていないのに得たと思念して高ぶった慢心のこと四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。すなわち自己の価値をそれ以上に見ることをいう。また俗にいう自惚れに相当する。の典型だ、この人★前頁であれだけ偉そーに記していたくせに自分自身のことはやっぱり棚上げだ。程度がひどく醜い)ですから、しっかりとした夢をいだき、夢を描いていさえすれば、あの世の守護・指導霊たちの援助を受けて(やばい。これ=指導霊頼みだったのか?)、実現できる可能性が高いといえます(←下線部はもう「過信している人の戯言」にしか聞こえて来ない)

 実をいうと、これが、ほんとうの意味での自己実現なのです(←ひど過ぎる。大谷翔平選手の実現の仕方が「本来のそれ」だ)。つまり、自己実現のためには、まず、夢をいだく。そして、それをビジョン化し、祈りによって、守護・指導霊にお願いし、やがて具体化するというプロセスをとるわけです。自分のいだく夢が、自分の人格の向上と、人びとのしあわせにつながる必要あるのは、当然です(←もうダメだ、この人の論。完全に破綻してる)

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

この炭素、私には無彩色の状態で見えて来るのだが、色が付いている場合もあった。それについて「何が不思議だったか?」というと、それ自体が正真正銘の「色」であって、「光」ではないのだ。なので、「色を作る元が『炭素』なのか?」と思っていた。】のつづきから

 まず私事から。2016年度全科履修生として放送大学に入学し、当初は全ての科目に於いてアップデートのつもりで「自然と環境」コースを専攻した。化学の先生から講義中に、「“色”は金属から作られる」と教わった。なので、それによると、色を作る要素は「炭素」ではなく、「金属元素の化学反応から作られている」となる。この問題については、分野が違えば異論も出てきそうだが、概ね学術界ではそのような定義や解釈から「色という“モノ”が成立している」らしい。

 では、私の眼に映って来ていた、あの白や黒、または灰色等のグラデーションの物質として視えていた“モノ”は、なんだったんだろうか?? と。

 ここでまたも「色」を辞書で引いてみる。注:だけを参照する。

【色:光による視神経の刺激が脳の視覚中枢に伝えられて生ずる感覚。色相(色あい)・明度(明るさ)・彩度(あざやかさ)の三属性によって表される。また,特に白や黒を除いていう場合もある。色彩。

 上記を参照すると、化学の先生からお聞きした「色」は、無彩色「白や黒」を除いた、カラーの部分を「色」と定義されていたのではないだろうか??との疑問が湧いた。……それを考慮すると、墨汁の墨は炭から作られ、それこそ「炭素」からだ。またその炭を灰化すると「白」になる。故に、白と黒という物質的な要素は、やはり「炭素」ということにはならないだろうか。否、そういうことになるかと。ということで、私が霊視?肉眼?で見ていた「あの物質達」の正体は、元素の「炭素」となる。その根拠も、キラキラと輝く「炭素化合物」がダイヤモンドとして存在しているからだ。

 実際、それは「中道」を通して視えていた物質なので、次は「中道」に焦点を当てて分析してみる。 つづく R5/8/10㈭23:22

 

56.シリウスから来た女part.2「腹の中の白と黒 」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-59)[太陽の法:6ダイヤモンドの時間]…

 人生を力強く生きるためには、有限な時間を正しく使うことが必要となります。人間の魂が地上に生まれかわってくるのは、何百年に一回、あるいは、何千年に一回です。つまり、それほど貴重な体験なのです。それにもかかわらず、大多数の人びとは、人生の意味を深く追求することもなく、無為の時間を過ごしてゆく。もったいないことです。

 晩年になってから、神の存在に気づき、信仰心に目覚めて、やりなおしをしたいと思っても、過ぎ去った 人生の時間は、矢のごとく、ゆく川の流れのごとくであり、もはや取りかえしがききません。

 ですから、人生の早い時期に、神理に目覚めた人はしあわせです。そして一生を神理にしたがって生きることができれば、最高だといえます。もちろん、おそく神理に出会ったからといって、それで、なにもかもがだめになるわけではありません。おそく目覚めた人は、それなりの覚悟をもって、密度濃く生きれば、それはそれで、すばらしい人生となっていくでしょう。

 人生には、ひとつの秘訣があります。それは、自分が死ぬときのことを瞑想してみるということです。自分が死ぬとき、なにを考え、なにを感じるだろうかということを、つねづね瞑想してみることです。そのときに、「ああ、生きていてよかった」「人生ってほんとうにすばらしいな」と思える人は、幸福な人生を生きた人だといえます。

 その反対に、自分が死ぬときのことを考えると、後悔ばかりが、つぎからつぎへとわいてくる人たちもおります。気の毒な人です。こういう人たちは、死んであの世に還れば、高級霊の面前で、自分の一生を反省させられるのです。 テレビでも見ているようにそれはそれはあざやかに、自分の人生がそこに映し出されて、大勢の人びとの目の前で、それを見せられます。

 死んであの世に還ったばかりの人は、神の目から見たら、自分が、一体どういう人間であるのかということを、はっきりと知らされるのです。このときは、なにひとつ、うそも、いいわけもききません。そして、たくさんの人びとに視線を感じて、自分の行くべきところを悟るのです。地獄へ行く人は、自らが選んで地獄へ堕ちてゆきます。というのは、 自分がどういう人間かがわかってしまったら、恥ずかしくて、天国には住めないからです(←嘘。まず天国に逝くには、地球の重力を外す必要があるし、その前に、羽が生えていなければ「天=空」へ向かっては飛べない。だいたい天国に逝くことができる人間は、それさえ自由意思だ。そして自分がどう生きるか?ということより、他人の幸せを第一に考えて行動しているから、自分自身に掛かる重力は半端なく小さい。こんな原理は、発想が天使等で無ければ実感できない★大川隆法にはそういう原理=霊的真理が理解できていない。それはこれまでの言葉遣いの端々から如実に剥き出していてバレている。本人は相当に自分自身の論に酔っ払っているようだから、他人に、否信者に対し「正しい」を教えることも無理だったようだ)。物理学的にいうならば、霊的な波長が粗雑で、ほかの人びとの精妙な波長にあわないということです。あるいはまた、意識体(←これは「邪念化」)が、三次元的な、物質的なものになってしまい、その比重が重くて、下へ沈んでしまうということでもあります(←天国の逝き方は知らないらしいが、地獄への赴き方は知っていたらしい)

 しかし、死去したあと、実在界で、自分の人生模様を見せられて、ほかの人たちから拍手を送られる方もいます。すなわち、その人が、自分の人生のまちがいに気づき、神に両手をあわせて許しを乞い、その両眼から涙が流れている映像が映るとき、あの世の人びとは、拍手喝采し、新米の霊人の肩をたたき、握手を求めるのです。また、その人が、神理の伝道のために一命をなげ出し、立ちあがった姿が映ると、光の天使たちは、涙を流してよろこびます。

 これは、何年、あるいは、何十年先かわかりませんが、あなた方を待ち受けている光景なのです。そのときが、確実にやってくるのです。だからこそ、私たちは、つねづね、自分たちが死ぬときのことを、いや、むしろ、たとえ明日命がなくなってもいいような人生を生きているかどうかを、自問しながら生きるということが大切なのです。

 死ぬときに、いまのような生き方であなたは、恥ずかしくはありませんか。悔いは残りませんか。自分の良心に照らしてみて、どうでしょうか。

 人生の時間をダイヤモンドのように輝かすためには、こういった意識と発想の転換が必要だといえます(←この下線部には同意)。すなわち、自分の死の瞬間を想定して、現在までの自分の生き方を反省してみることです(←これは今現在のあなた=大川本人に言ってやりたい文言だ)。これは、第三者の立場に立って反省するということと、同じだといえます。そして、これが、ダイヤモンドの時間を生きる秘訣なのです。密度の高い、煌めきのある人生を生きる秘訣なのです。

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

この原点「0」に対して、四次元に鎮座する魂の土俵を合致させてみると、あら不思議。白と黒の……まるで囲碁かオセロのような世界観が見えて来る。これら「陣地取り合戦の勝敗」が、実際問題の「LGBTQ」に派生して来る。】のつづきから

 今回は、白と黒の元になる物質の説明から。

 もうお分かりだろうが、その正体は「炭素原子」だ。炭素自体は、タンパク質・炭水化物等の栄養素として摂取する、我々が日常的に体内に取り込んでいる物質だ。それが心的精神的にも作用しているのも薄々ご理解いただいているのではないか?と。

 さて、その炭素原子は、4本ある手(両手?両足?)を持つ比較的他原子と結合がし易く、たくさんの化合物を生成できるのが特徴と言える。……ということは、「変幻自在な物質」とも言えるのではないか?と。

 不肖私は、幼少時から他人の身体、特に腹の中に、この炭素という微粒子の存在を、形ある状態で、且つ肉眼?霊眼?で見ていた。何を見ているのか?よく分からないで視えていたが、誰かに聞いて良いか?どうか?は、「これって、聞いちゃいけないよな……」という感じでやり過ごして来ていた。なので残念だが、いまだに誰かと「これ」についてを語り合ったことがない。無論?「炭素」という単語を知ったのは、中学生だった。

 この炭素、私には無彩色の状態で見えて来るのだが、色が付いている場合もあった。それについて「何が不思議だったか?」というと、それ自体が正真正銘の「色」であって、「光」ではないのだ。なので、「色を作る元が『炭素』なのか?」と思っていた。つづく R5/8/9㈬23:32

55.シリウスから来た女part.2「男女の方向“性”を平面座標から考察する 」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-58)[太陽の法:5煌めく人生]…以下は独自の見解と考えられるので、私からは差し控えることとする。

 人生には、「反省」と「進歩」が必要です。しかし、ただそれだけでは彩りがなさすぎると、私は思います。人生には、やはり「煌めき」が大切だからです。では、その煌めきとはどういうものなのでしょうか。一体何でしょうか。それについて、考えてゆきたいと思います。

 煌めきとは、光がその光彩をはなつ瞬間です。そして、その煌めきの瞬間にも、私は三つの瞬間があると思うのです。ここで、この三つの瞬間について、お話しましょう。

 第一の瞬間とは、病からたちなおったときです。病は、人生における試練のときだといえます。この試練といかに闘うかによって、その人の人間性が試されるのです。病は、二つの意味から、試練だといえます。そのひとつは、肉体的な苦しみをともなうということです。そして、いまひとつに、精神的な苦しみがあります。

 まず、肉体的な苦しみについてですが、それが生じるのは、たいていの場合、規則正しい生活をしていないか、過労か、それとも、本人の念いになにか問題があるかです。 ですから、病に苦しんでいる人は、その肉体と同様、その心も病んでいるということに気がつかなくてはなりません。そして、肉体が苦しんでいる理由をよく反省することです。

 病気の八割までは、なんらかの憑依霊状態を起こしており、死者の霊が、他人の肉体を使って、本人と同じように、脂汗を流して苦しんでいることが多いといえます。その証拠に、憑依霊を取りのぞいた瞬間、あっというまに熱がさがり、病人が心身ともにさわやかになって、立ちあがるということがあります。これは、まさに、肉体がいかに霊的な影響を受けているかということの証左です。

 憑依霊がいちばんいやがるのは、反省と感謝です。なぜならば、病気になった本人が、反省と感謝をしはじめると、その後頭部から後光がさしはじめるため、しだいに、憑依霊と波長があわなくなり、憑いていられなくなるからです。この後光を、さらに強く出すためには、本人の精神的な苦しみを解決してゆかなくてはなりません。

 精神的な苦しみを解決するためには、まず自分がもっている執着を、ひとつひとつ点検し、これを取りのぞいてゆくことです。病人に対してはこういういい方は皮肉ですが、執着を断って、いつ死んでもいいような心境になったときはじめて、あの世の守護・指導霊の力で、神理の光が入りはじめ、病は、急速に回復していきます。これが、まさしく奇跡の瞬間です。このように、病からたちなおるという奇跡の瞬間を体験した人は、一大廻心をし、一大新生をなしとげたのだといえます。そして、この煌めきは、本人だけのものではなく、ほかの人びとをも照らす心の光となるはずです。

 煌めきの第二の瞬間は、信仰に目覚めたときです。信仰なき人生と、信仰ある人生とでは、たとえば、闇夜に手さぐりで生きている人と、カンテラを照らして生きている人ほどのちがいがあります。

 この三次元は物質中心の世界ですが、物質ばかりに心がとらわれて、唯物主義を真理だと考えるようになってくると、だんだんに、快楽のみを追い求めるか、闘争だけに熱中するようになってきます。すなわち、神の目を忘れた人間、もっともあわれむべき人間となってくるのです。信仰は、夜道を照らす一条の光です。この光によってのみ、実在界の存在を忘れ去っていた人間がはじめて、それを認識できることとなるのです。

 煌めきの第三の瞬間は、霊道をひらいたときです。霊道をひらくとは、自らの心の扉がひらいて、潜在意識層の守護・指導霊と対話ができるようになることです。霊道とは、いわゆる超能力とか、霊媒体質とはちがいます。それらは、特殊な訓練をしたり、生まれつきそなわっていたりしますが、霊道の能力は、後天的なものです。しかも、霊道とは、真理を実践している者ならばだれもがもちうる能力である点が、すばらしいのです。地獄界ができる以前の、太古の人間には、すべてそのような力がありました。そのことを、いまの人たちは、忘れているだけなのです。

 霊道をひらくことは、さほどむずかしいことではありません。太古の人間のように、心を澄ますことができたらば、だれもが多次元の霊たちと話をすることが可能になるはずです。心を澄ますためのいちばんの方法は、やはり反省ということになります。人間は、自分が生まれてからこのかたの環境、教育、思想、習慣、そして、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根煩悩に支配されて、天性の魂の輝きを失ってしまいました。ですから、これを取り戻すには、自分がつくった、あやまちという名の「心のくもり」を晴らす以外にはないのです。そのためには、 正定です。すなわち、精神統一をして、自らの生まれてからこのかたの、思ったこと、行為したことを、ひとつひとつ反省する。霊道による神の光の体験。これが、すなわち、人生が煌めく第三の瞬間なのです。

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

女性“性”や男性“性”と一口で言っても、その両方が「一人の人間に備わっている」という事実を、(中略)……「魂」という記憶媒体&装置のある種の資質だから。……文字面で説明するには、ほとほと難しい。】のつづきから

 男性“性”及び女性“性”という人間の質的方向性については、拙書をお読みいただいた方々には既にご承知おきいただいているような……と思われるが、再度こちらへ。

 縦方向に走る傾向が男性的“性”向(エネルギー的には㊋)であり、横方向に広がる傾向が女性的“性”向(エネルギー的には㊌)と述べていた。これは「平面座標」で表示できる“モノ”として、Y軸が男性的“性”向であり、X軸が女性的“性”向である。

 さて。上記の平面座標で見えてくる傾向には、男性“性”向、または女性“性”向、この両者2点は「マイナス」と「プラス」の部分、つまり「正・負」をどちらも合わせ持っている。それら正・負を分けているのが、最近流行りの?「ゼロ点」=「原点」だ。

 この原点「0」に対して、四次元に鎮座する魂の土俵を合致させてみると、あら不思議。白と黒の……まるで囲碁かオセロのような世界観が見えて来る。これら「陣地取り合戦の勝敗」が、実際問題の「LGBTQ」に派生して来る。 つづく R5/8/8㈫22:47

 

54.シリウスから来た女part.2「魂は両性具有」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-57)[太陽の法:4人生は日々の勝負なり]…

 この世の執着を去って、心をはだかにして、神の子として生きてゆくことを誓ったとき、私たちは、一体なにをなせばよいのでしょうか。

 私たちのなすべくことは、山にこもったり、滝にうたれたり、あるいは、断食をしたり、座禅ばかりして日々を過ごすことではないはずです。人間は、山にこもるために生まれて来たのではありません。人間は、断食をするために生まれてきたのでもありません。そんなことでは悟れないことを、二千五百年前に、インドの釈迦が、証明しているではないですか(←下線部全くの同意)。彼の人生をむだにしないためにも、そうした肉体行のなかに悟りの因はないということを、私たちは疵金は気づかなければならないのです。

 肉体を極端に快楽のなかにどっぷりとつける生活のなかにも、肉体を極端にいためつける肉体行のなかにも、ほんとうの悟りの因はありません。これら左右の両極端をすてた中道の生活こそ、神が期待している生活なのです。

 人間が心であり、魂であるからといって、肉体をそまつにせよといっているのでは、もちろんありません。肉体とは、人生修行のために、両親の縁でもって、神からいただいた大切なのりものなのです。

 お金を出しさえすれば、簡単に買える車でさえ、「愛車」だからといって、毎日毎日ピカピカに磨きあげている人がおります。しかし、車を大事にするぐらいなら、自分の体をもっと大切にし、健康のために、適度の運動と、調和のとれた栄養を考えて、維持しておくべきです。そして、睡眠をしっかりとり、 規則正しい生活をすることです。また、人間の理性と知性を狂わすアルコールなどというものに、魂までうばわれないことです。心身のリフレッシュのために、アルコールをときどきとることはけっこうです。しかし、アルコールがなければ生きてゆけないようになると、やがて人間は理性を失い、地獄の悪魔たちに肉体を支配され、肉体をあけわたしてしまうようになります。それが、必ず仕事の失敗、家庭の崩壊へとつながってゆくのです。

 左右の両極端を去って、中道の生活に入るべきだとことばでいうのは簡単ですが、それを実践するのは、たいへんむずかしいことです。中道の道とは、考えれば考えるほどに、奥の深い道なのです。では、どうしたら中道の生活に入ることができるのでしょうか。どうしたらそのモノサシを手に入れることができるのでしょうか。人びとのつぎなる疑問は、ここにあります。

 中道の道に入るためには、まず、二本のモノサシが必要です。一本は、いうまでもなく八正道を中心とした自己反省のモノサシです。もう一本は、愛の発展段階説を基軸とした自己観照のモノサシです。この二本をモノサシとして生きていただきたいのです。

 八正道とは、 正しく見、正しく語り、正しく仕事をし、正しく生活をし、正しく思い、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入るべしという教えです。これは、「正しさ」というものを基準として、自分の心と行ないの両極端な揺れを修正し、中道を見出すための方法だといえます。すなわち、中道のなかにあってこそ他人と仲良く生き、大調和の生活ができるからです。しかし、正しさを基準として、自己反省ばかりしていることが、消極的、厭世的なる人生に堕す危険は、いましめねばなりません。つまり反省ばかりをしていると、人生は前に進まないということにもなりかねないからです。……相変わらずだが、「正しく◯◯」の“正しく”とは、どういう状態を指しているのか?、できれば詳しく説明して欲しかった。場所や人によって「正しさ」は変わる。

 自分をしっかりと反省できたならば、つぎは、それをどのように心で、どのように行ないで、あらわしていくかです。すなわちそれは、感謝行ということになります。では、感謝行とはどういうものでしょうか。

 人びとに、「ありがとう」ということですか。確かに、それもひとつです。しかし、ほんとうの感謝行とは、もっと積極的なものです。つまり、「あなたは、他人に一体なにをしてあげたか」、そこに、ほんとうの感謝行があります。

 それは、やはり愛なのです。与える愛です。与えつづける愛です。無償の愛の実践なのです。これが、ほんとうの感謝行のあり方だといえます。そこで、ときおり、自分がいま、「愛する愛」の段階にいるのか、「許す愛」の段階にいるのか、それとも、「存在の愛」の段階に入ったのかを自問自答してみる。すなわち、自らの成長を自己観照してみることが必要です。なぜならば、愛の発展段階は、あなたの成長の確かなバロメーターであり、そこに、日々の進歩があるからです。

 「反省」と「進歩」。この二本のモノサシが、神の子としてのほんとうの人生の証なのです。ですから ら、日々反省し、自らの極端な思いと行動をいましめ、日々、自己観照して、自らの進歩をふりかえってみなくてはなりません。そうするときにはじめて、人間は、人生の日々の勝負に勝利しているといえるのです。……この人大川氏の「二本のモノサシ」という表現と、私の「中道=中庸で生きる」、←この主張は概ね同じことを違う視点で捉えているような?と思われる。私の場合のそれをさらに限定していくと、「二重螺旋構造」にぶち当たる。……こうした解釈の差でも「すれ違う」感じが否めない。あしからず★

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

そのお陰様で、色んな経験値を積む事ができた。……今は、振り回すことも振り回されることもほとんどなくなった。実際それは「奈落の『底(=安寧化)』に着いた」からだと思う。】のつづきから

 ここで、「奈落の底に落ちた理由」というところで、

39.実際、これは「偏光」という波の状態の相反=地震ではP波やS波のような、互い違いに訪れる波の動きが反射的に現れて来る症状】の目で物事を捉えてしまっているという状態だ。……こうした症状が、精神を分裂させてしまう病い=統合失調症という病態に大きく影響を及ぼしている。

40.……当時の私には「うんこ=(「女(の中身)はうんこでできている!!」)」の意味が理解できていなかった。……が、2006年から始めた「二年間の勉強会」にて、この事実を思いっきり思い知っていくのだった。

↑ これらの話題に通じていくわけだが、どれほどの深さや広さが在るだろう女性“性”の、そこはかとない“闇”を、我が身で体験しなければ、到底辿り着けなかった「今の自分の幸」を、当ブログにてどこまで吐露&披露できるか?分からないが、とにかくやるだけやってみる。それをすることによって、これから一大事な“性”という向きが、どれだけ自分自身にとっての「大事な指針になっているか?」、その説明に繋げていきたいと願っている。

 さて「最初の難関」として。

 女性“性”や男性“性”と一口で言っても、その両方が「一人の人間に備わっている」という事実を、先に認識してもらわなければならない。それが現在進行形でありながら、なかなか語るに語り尽くせない「LGBTQ」への大問題に繋がっていく。それこそが「魂」という記憶媒体&装置のある種の資質だから。……文字面で説明するには、ほとほと難しい。 つづく R5/8/7㈪23:11

 

53.シリウスから来た女part.2「遠心力と求心力」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-56)[太陽の法:3熱鉄のごとく赤く燃えよ]…

 執着を断つことは、人生における一大決意だといえます。つまり、永遠の人生において、幸福を保証する英断であります。しかし、このことは、人生を消極的に生きよ、うしろ向きに生きよという意味では、決してありません。執着を断つからこそ、積極果敢な人生がひらけてくるのです。

 世の人びとをよくご見てごらんなさい。執着のある人びとの、なんと弱々しいことでしょう。なぜ、自分の地位や名誉、あるいは、他人とくらべた年収などに執着をするするのでしょうか。なぜ、学校の名前や会社の名前に執着するのでしょうか。なぜ、見栄や虚栄に執着をするのでしょうか。そんなものに執着して、一体なにになるというのでしょう。この世の人びとに評価されてところで、一体それがなにになるのでしょう。はるか彼方の、大宇宙のはてよりも、さらに偉大な神の存在から見たならば、人間の執着など、いかにはかなく、いかにむなしく、いかにとるにたりないか。そのことが、わかりますか。

 すべてのこの世的な執着を断って、熱鉄火のごとく赤く、熱く燃えてこそ、真実の人生なのです。それでこそ、神の子としての人生なのです。それでこそ、神に認められる人生だといえる(←結局、この人も「誰かに認められたい」執着があるのではないか?と。ここでのあらかたは、私もほとんど納得し自覚することもできるが、ミイラ取りがミイラになる典型が、このような「自分のことは棚上げしてしまう癖」にあると実感する。特にこの人の今は「地獄に居る」ので、私自身はこの彼の状態を布石としたい←もしかして、それが上から私を見張っている者達の狙いだったのではないか?と★ギョッとする★☆彡)のではないでしょうか。

 人間がこの世で築いた地位も、名誉も、財産も、死んであの世にもって還ることはできないのです。この世の肩書きなど、あの世では、もちろんのこと通用しません。日本の総理大臣といわれた方たちが、一体何人、あの世の地獄で苦しんでいるか、あなたは知っていますか。人もうらやむような大会社の社長が、何百人、何千人と、色情地獄、阿修羅地獄、あるいは、畜生道に堕ちているのです。そのことを、あなた方は知っていますか。生きていたときに、金もうけばかりうまくて、何人もの女性との快楽をむさぼった人間が、快楽のうちに人生をおえた人間が、そのわずか数十年の快楽のために、一体何百年、苦しみという名の代償を支払いつづけているか、あなた方は知っていますか。地獄は、むかし話や方便ではなくて、実際にあるのです。厳然としてあるのです。

 神理を体得した人の目から見れば、あの世で苦しんでいる人びとの姿は、金魚鉢のなかの金魚を見る人よりもたやすく見えてしまいます。そして、そういう彼らに共通するのは、この世に執着の多い人ほど、苦しみもまた深いということです。

 人間は、心です。魂です。ですから、死んであの世にもって還れるものは、あなた方自分自身の心以外にはないのです。心がすべてなのです。死んであの世にもって還れるものは「心」」しかないのだと気づいてはじめて、人間はひらきなおることができるのです。

 心しかもって還れないならば、せめて美しい心をもって還るしかないでしょう。では、美しい心とはどういうものでしょうか。もちろん、神さまがほめてくれるような心です(←ね?上記のツッコミと同レベルな“事”を、ここでまたもツッコマざるを得ない。誰かに褒めて&認めて「もらう事」←これも十分「執着心」からだから★本当に「心」の基礎固めができていない証拠が、まさにこれ。自業自得もこういうことだ。他人に厳しく言えば、結果「己に返る」。またしても奇しくも前回52.記事で、以下「つづき」として取り上げたが、これも有り難く「布石」とさせていただく)。神さまがほめてくれる心とは、愛に満ちた心です。与える心、生かす心、許す心、感謝する心です。ですから、そういう心をもって還れるように、心を磨き(←また「出た」)、心を高める(←「心」は高められる“モノ”ではない。本来どこにでも在る“モノ”が「心」だ。「(清)浄化」はできる)ことにこそ、熱鉄のごとく赤く燃えあがるべきなのではないでしょうか。

 執着の反対は、なんだと思いますか。それは、愛です。なぜならば、愛とは、与えることだからです。他人を生かすために、与えつづける愛のなかに、一体なんの執着があるというのでしょうか。←これこそ「エゴ」なのに「愛だ!!」と勘違いして接している、特に親密な関係に多い。が、エゴと愛の違いを感覚的な言葉で表現することは非常に難しい。なぜなら、どちらも「愛だ!!」と言い張り、言い切ってしまうから。

……小学生の頃はいつも「愛が何より大事だ!!」と思っていたが、そんな事より愛から発した行動であれば、あとで「自分自身が後悔しないで済む」と、その方が得策だと、だんだん身に沁みて分かって来たので、今では結果的に誰に何を言われても平気になった。

 ですから、執着を断つには、まず、愛を与えることからはじめることです。あなたは、お世話になったご両親に、なにをしてあげましたか。兄弟に、なにをしてあげましたか。また、お世話になった先生の期待に、こたえることができましたか。友人になにをしましたか。縁あって人生の途上で出会った人びとに対して、一体なにをしてあげましたか。隣人に、なにをしてあげましたか。恋人に、なにをしてあげましたか。妻や夫に、なにをしてあげましたか。あるいは、子供を育てるときに、自分のご両親の苦労をどれだけ思い出しましたか。心のなかでにくんでいた人を許してあげられましたか。怒っていた心をしずめてあげましたか。神の愛に、どれだけこたえながら、勇ましく人生を歩みましたか。

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

騙される事も厭わない自分がいた。(中略)それまでの私の経験値では、目の前の他人の言動・行動には、そうした「見(=その身)返りする結果しか“見た事”がなかった」からだ。何故なら……それが「円(=互縁)の法則」だから。】のつづきから

 誰しも「自分が蒔いた種は、自身で刈り取らなければならない」←これが「円(=互縁)の法則」だ。視野を大きく取ってみれば、遠心力【辞書より:円運動する座標系に現れるみかけの力(慣性力)で,回転の中心から遠ざかる向きに働く。向心力と大きさは同じで向きが反対になる。このため,円運動をしている物体は,同じ回転座標上の観測者には静止して見える。向心力求心力 もその一つ。周囲に居る人間を、自分の力(=意思や意志:求心力)で振り回せば、やがて自ずと自分自身に返って来る。それが原因と結果に観る因果応報だ。見えない世界の法則とは、絶えずそんな感じでやって来る。

 金銭的にも時間的にも余裕が無い「貧乏暇なし」なのは、考える(=意思や意志)時間ももったいないほど、金を稼ぐために常に体を動かしながら、体力や実力を付けていく。そうして、他者を巻き込むための自分発の「求心力」を身につけるまでは、遠心力による自分が何“モノ”かの力によって始終振り回され続けるのだ。

 その逆に「金持ち喧嘩せず」とは、財があれば財力で解決でき、無駄に労力を使わずに済むからだろう。

 私は当初から住宅ローン“地獄”にハマっていたので、前者「貧乏暇なし」だった。故に自分以外の他者からは始終「振り回されっぱなし」だった。しかしそのお陰様で、色んな経験値を積む事ができた。……今は、振り回すことも振り回されることもほとんどなくなった。実際それは「奈落の『底(=安寧化)』に着いた」からだと思う。 つづく R5/8/6㈰23:41

52.シリウスから来た女part.2「信用できるか、できないか」

以下引用文(四角枠)内が「太陽の法(大川隆法著)」からの原文、赤字が私の解説等です。(以下文中の太字は、原文での傍点箇所)

[(3-55)[太陽の法:2執着を断て]…

 自らを知るためには、自らすてるということです。ほんものの自分を知るためには、にせものの自分をすてなくてはなりません。つまり、にせものの自分に気づくことが、にせものの自分をすてる第一歩となります。そこで、まず、にせものの自分というものを列挙してみようと思います。……これまでもずーっと思って来たが、「すてる」「ほんもの」「にせもの」等々、普通に読めるであろう単語なのに、何故に漢字表記にしないのだろうか?←この“事”に私は、不信感というか、大川自身が「本物」と名乗れない理由が有る気がしてならない。←あくまでも「私の個人的見解」★

 一、他人から愛をうばい取る

 まず、にせものの自分の筆頭とは、他人から愛をもぎ取ることばかりを考えている自分です(←奇しくも先日ご紹介した解離性同一性障害を発症した娘さんの状態)。神さまは、宇宙を与えられたのです。人間の魂も、人間の肉体も、神さまから、与えられたのです。神さまは、太陽も、空気も、水も、そして、大地も、海も、動物も、 植物も、鉱物も、いっさいがっさいを与えきりました。しかし、神さまは、なんの報酬も求めてはいらっしゃらないのです。

 このように、「与えきり」の世界のなかに生きておりながら、人間は、なにゆえにうばうことばかりを考えるのでしょうか。神に、これだけの愛を与えられておりながら、一体これ以上、どれほどの愛を与えられたら満足するというのでしょうか。

 神の愛を知らない人だけが、他人の愛をうばい取るのです。しかし、うばい取りたい他人の愛とは、一体なんなのでしょうか。

 お金に換算された報酬ですか。あるいは、地位ですか。名誉ですか。名声ですか。イスですか。それとも、「あなたを心から愛している」というひとことですか。「なにもかも、あなたのおかげです」ということばですか。あなたに失礼を働いた人の深謝のことばですか。あるいは、性的なサービスですか。それとも、親からもらったもの以上に立派な肉体ですか。自分の子供をほめられてもらうことですか。あるいは、自分の夫の学歴をほめてもらうことですか。それとも、他人から、「美しい」とか、「二枚目」だといってもらうことですか。お化粧のでき具合をほめてもらうことですか。←私の勉強会及び実験に参加された方々も、ほとんどはこの中に含まれるように感じる。……私から本当の“事”=「真理」を勉強する事なんか、本当はどうでも良かったのではないか?と、今更だが回想すると、そう思える節が多々出て来る。それだけ「俗世にまみれてしまう」この世体験の修行に於いては、自身で自覚しない限り、元の場所「天」には還れないのも運命=必然なのかもしれない。

 しかし、そんなことをしてもらったところで、一体それが、なんの役に立つというのでしょうか。一体どれだけ、自分の向上に役立つというのですか。そのような自己愛の心は、他人と自分をへだてる壁となり、やがては、地球全体に、動物園のような金網の柵をはりめぐらすことになるのです。そういうことが、なぜわからないのでしょうか。すなわち、まちがった執着をもっているからです。だから、わからない。執着の心をもっていたのでは、ほんとうのしあわせというものを得ることはできないのです。

 二、神を信じない自分

 もっともあわれむべきなのは、神を信じていない人たちです。神がつくられた世界を信じていない人たちです。人間とは、偶然に男女の性的結合の結果生まれて、バラバラの個人として生きているのだと思っている人たちです。ここに、もっともあわれむべきにせものの自分があるのです。

 「証明のできない神などは信じられない、信じろというのならば、きちんと証拠を出してみろ」というような方は、すでに神というものをさばいているのです。神をさばけるほど、自分がえらいと思いあがっているのです。しかし、人間では、地球の誕生以前からいらっしゃる神の存在を証明することなどできません。その証拠がほしければ、死んであの世に還ったあと、証拠を見せられるでしょう。ただし、 そのときには、すでにほとんどが手おくれなのです。そして、真っ暗な世界で、自分の存在すら証明できなくなるほどの困惑に陥ってしまうでしょう。←これ、大川氏が「自分の“事”は棚上げしていた」という典型じゃない?……激流地獄の中、その通りの困惑顔して、ひたすら「どうして(自分が)こんな目に??!!!」と必死な形相で考え込んで居たし★

 三、精進をしない自分

 にせものの自分の三番目とは、精進をしない自分です。精進をしない自分とは、第一に、怠け心ある自分であり、第二に、神理を学ぼうとしない自分であり、第三に、他人を公平に見ない自分であり、第四に、すなおでない自分です。

 神は、私たち人間に、永遠の努力を期待していらっしゃいます。ですから、努力をしない人間は、神の子とはいえません。

 あなたは、日々、努力していますか。日々、神理の勉強を深めていますか。他人の実力、他人の真価を、しっかりと評価してあげていますか。そしてまた、すなおに生きていますか。すなおでない人間には、向上などありません。すなおでない人間は、真の魂の学習などできません。すなおであるということは、それ自体が美徳であり、それ自体が神の御心にかなっているのです。ですから、理屈ばかりをいって、他人のいうことばに耳を傾けないのは、すなおでない証拠です。

 四、執着だらけの自分 

 いつわりの自分とは、すなわち、執着だらけの自分ということです。真実の自分を知るとは、日々、神の心を心として生きるということです。そして、神の心を心として生きるとは、この世が修行のための仮の世であり、すべてをすてて、やがてあの世へ還らなければならないことを知って、日々、生きるということです。たとえこの世にいくらしがらみついていたところで、やがては、必ずあの世へと旅立ってゆかねばならないということなのです。

 人生は、無常なものであり、一日一生の思いで生きなければ、いつなんどき、死に見舞われるかもしれないのです。天国にいる人で、地上に執着をもっている人などひとりもおりません。しかし、地獄にいる人はすべて、地上に執着をもっている。その事実をいっときも忘れないことです。

 

 

 

シリウスから来た女」の続編part2

天使との交流や天使の羽を生やすエネルギーを注入する能力、また「守護天使と会話し、天使のエネルギーを『絵』にお入れし(て売り)ます」だった。そしてそれを餌にして「同志」を見つけ出そうと、「真理の話」に興味がある人だけを対象とした「勉強会を私としませんか?」←お誘いすることにした。】のつづきから

 しかし、ただ「誰でもいいからお誘いしていた」訳ではなかった。あくまでも私がその人を信用でき、且つその人から私自身も信用されている事が最低条件だった。

 当初「名刺屋」と陰で囁かれていた頃、東京での講話会に初めて参加された若い女性から、「りつこさんのお力になりたいです!!、なんでもお手伝いさせてください!!!」と、力強い口調で言われ、私の「六次元の名刺」をなんと!!「300枚」も?、なぜか一気に購入希望され、不思議な気持ちで「まあ、そんな事を言ってくれる殊勝な人だから」と、もしかしてスタッフになってくれるのかな?なんて、手前勝手に呑気に構え、注文通り発送した。……その後、彼女とはそれっきりで、なんの連絡もなかった。

 それでも当時の私は、「しばらくしたら、連絡くらいはしてくれるだろう」と考え、また彼女自身のやる気を優先し、私からの連絡は控えた。だが多分私は、その場しのぎの彼女の嘘に騙され、利用されただけだった。その頃は、まだまだ他人を「疑う事」ができずに、騙される事も良しとして受け止め、「それも修行の一環だ」とやり過ごす事で、自分をも騙していたんだと、今の私にもそう考えられるようになった。……しかし、この一件は、私の参加者への見方を大きく変えた。

 なので、騙される事も厭わない自分がいた。実際「中に居た私」の感想としては、「それはそれで『本人自身に返(帰還)って行く事(=嘘や裏切り行為)だ』」と考えていた。理由として、それまでの私の経験値では、目の前の他人の言動・行動には、そうした「見(=その身)返りする結果しか“見た事”がなかった」からだ。何故なら……それが「円(=互縁)の法則」だから。 つづく R5/8/5㈯23:28